評、3/3~3/6、ご投稿分、その1。 島 秀生
残り5作も、1時間後に。
●鯖詰缶太郎さん「やまない雨があるならば、やりきれないはずだ」
この詩を読んで、沢木耕太郎さん(少しだけ話したことがある)のことをちょっとだけ思い出しましたけど、もしかしたら鯖詰缶太郎さんの名は、沢木耕太郎さんの名をもじってるのかもしれませんね。
ラストの7連(「あんたの潤んだ瞳~」以降終連まで)がすごくいいです。ここだけで詩になります。こことてもステキでした。
えーーと、3点ありまして、
まず1点は、こりゃちょっと小説仕立てすぎる気がします。比喩とか隠喩とかの誇張表現や写し替え表現を超えて、最初から場も人も架空想定でスタートして書いてると思う。
2つ目は人称。「あなた」と「あんた」は同一人物に見えます。でも基本的に人称の呼び方が変わると、文筆の世界では別人ということになります(ちゃんと呼び名が変わる理由を踏まえて変わるのはいいけれど)ので、この理由なき乱れはアウトです。統一しないといけない。これは小説の場合でも同様です。
3つ目、
俺は肩がぶつかったと
因縁をつけ、
その男を殴った
殴られている男の手は
黒にも、赤にも、白にもなりきれない
曖昧な色をしている
その時、
あんたはいつの間にか、
俺の後ろに立っていた
気配に気づき、
殴るのをやめた俺のコールタールを
塗りたくったように、ねばついた手を
あんたの手が包み込んだ
ここの表現なんですが、あんまり良くない。
①後ろに回ったとこから「あんた」が始まるので、男とは違う3人目の存在が登場したように読める
②殴られてる男の「顔」ならともかく、なぜ「手」に視線がいったのか、不自然で説明がいるところ。あとで「ねばついた手」を出してくるために、伏線で先に置いたのが見え見え。上記引用2連目時点では、「手」への視線で書いてることがものすごく不自然。
③「殴るのをやめた」は不要。後ろに立たれた時点で、殴れない。いきなり手が包んだということで、いいと思う。
ああ、この①~③についても、どっちかというと、小説書く上での注意になりますが。
うーーん、
次回はもっと本当の自分に近いところで書いてみて下さい。場は変えてもいいんですけど、あくまで主人公は自分で。
鯖詰缶太郎さんは私は初めてなので、今回感想のみとなりますが、ちょっと異論はあるものの、ラストの7連良かったんで、この作品はいちおうマルです。
●妻咲邦香さん「知ってる人」
冒頭の1~2連で、この詩はもうグッドですね。
全体がかなり抽象寄りに表現されてるので、これも適度な距離感を持って読めるから、良いです。
少なくとも1~3連の前半は、自分の内の知ってる部分と知らない部分の、自問自答的に読んでいいのだと思う。「操る」についても、自分を操るの意で読みました。本人の意図はともかく、それで読めるからOKです。
5~7連(終連)については、6連のさまざまな人の並列もあるので、他者を主眼で読みました。
前半の主題のことを思うと、その連続(あくまで自己の内の話)で読みたい気持ちがあったけど、ここはそうではなくて、多角展開させてるように見える。
まあ、「知ってる」「知らない」の観点に立てば、自分とか他人とかって区分の仕方とは、また違う切り口の区分になるとも言えるので、「知らない」側に、自分の半分が入っててもおかしくないな、とも思えた。
私はそんなふうに捉えたけど、まあ、作者の意図はともかくとして、それなりに読めるものだった(話に筋があるものだった)のでOKです。
(抽象系はもともと数割当たってれば、御の字なのです)
名作を。
強いていうと、自問自答だと解釈すればすぐに整然とする前半に比べて、後半はロジックが取りにくいかな。
後半は、前半とは視点が変わっている様子なので、読む側としては5連、6連あたりでは、今度はどう展開させる気かな?と、まだ様子を見てる段階のところへ、もう終連が急に走り出してるといった感になるので、
そこは私はゆっくり行った方がベターに思うけど、たぶん字下げ連を挟んで、前3連、後ろ3連の形式を優先させてるんでしょうね。
●江里川 丘砥さん「臨終」
臨終に立ち会ってあげたんですね。
それは良いことをしました。せめても、だと思います。
逝くのは一人でも、見送る者があったなら、一人ではなかったのだと思いたい。
その瞬間は本人も怖いはずだけど、少しは心強かったことだろうと思いたい。
ショッキングな場なんですが、よく逃げずに、最後までつきあってあげましたね。
それだけで上出来です。
ちょいおまけの名作を。
そこを書けてるだけで、もう一つ価値があるので、いいんですが、
ちなみにこの方、作者にとって、どういう関係の方なんでしょう??? 臨終に立ち会えてるということは、近親のはずなんですが。
亡くなった方への愛情や思い出が語られていてこそ、その想いを共有することが可能になりますが、この詩はそこが全くないので、亡くなった方への共感は難しいです。
ただショッキングな場に立ち会った作者が、偉かったなと思うばかりです。
一つの詩に込めることが難しければ、連作にして、その方の思い出を語る詩も、また書くといいですね。ここでは一作ずつしか見ないのであれですが、ご自分の中では連作、ないしシリーズ化して、この方について、思い出面で補完する詩を書いておかれた方がいいと思います。この詩はまったく臨終の立会い場面しかわからないので。
先日、テレビの某番組で小平奈緒が出ていて、スポーツ競技もスポンサーがつけばいいんですが、スポンサーがつくまでは非常にお金がかかるのを自分で用意しないといけない。ご両親はそのためにずっと共働きで働き詰めだったようで、成長期の小平奈緒の世話を実際にしてくれてたのは、祖父母だったんだそうです。それであの人は祖父母への想いがひとしおあったんだそうです。もしかしたら江里川さんも、そのようなものがあるのではありませんか? それは書かないとわからないですよ。とりわけ祖父母やおじ・おばの話になってくると、人によって親密度が全くバラバラなものなので、書かないと伝わりにくい対象になります。
●秋さやかさん「季節工場【春】」
「季節工場」シリーズなんですね。
良い雰囲気があって、ほぼほぼOKなんですが、私はもちょっとメリハリを出した方がいいと思う。
ポイントは2点です。
1、門があいていて入ってくるところを見ると、これは近所の子どもたちなのでしょう。これ、もしかしたら創作によるものなのかもしれないのだけど、初めて聞く話で、珍しくておもしろい。これもっと、これがこの土地の風習なのだ的に描かれると、もっと雰囲気が増してよりステキになると思う。いえば、子どもたちにしてみれば、お祭りだってことです。
2、子どもたちが「熱い」息を吹き込んで、それが弾けたシャボン玉が飛び出すから暖かな空気が生まれるという、ちょっと物理的なロジックになっているんですが、実際そんな空気は非常に微量なものなので、そこにこだわる必要なんてなくて、子どもたちが雪解雫でシャボン玉をするという儀式が、春を呼ぶんだと考えに、スパッと変えたほうがロマンチックじゃないでしょうか。
この場合、「子どもたちが作るシャボン玉が 空で弾けるたび 春の陽気がやって来る」という着地だけでOKで、これで充分クライマックスになります。
ただしこの場合、そこで初めて「暖」を出すのがよく、その前には熱源となるものを一切出さない方がいい。「(ストローに)熱い息を吹き込めば」の「熱い」は逆に不可となります。
この2点は、要は、風習と儀式風にもっと仕立てるってことですね。オリジナルであってもいいので。
あと、ポイントではないんですが、わかりにくいのが、
ひとりが泡まみれの腕を引き抜いて
門へと向かえば
みんなもそれに続きます
取ってきたストローを
バケツのなかへ
ひときわ慎重に浸します
ここなんですが、「門へと向かえば」のところで、この表現では手ぶらで門に向かっているように見えて、バケツを一緒に持ってきてる気がしないんです。
だから、次の連でバケツが出てきた時に、あれ?ってなります。(手ぶらで門まで来たのに、またバケツを置いてたところへ引き返してるのかな? みたいなことに思う)
ここの表現は直されたほうがいいです。
「雪解雫」(ゆきげしずく)は、日常ではあまり聞き慣れない言葉なので、私は熟語のままの使用は若干の違和感があるんですが、この言葉で一つの季語のようですし、2連では意味合いを説明するべく丁寧に始めてくれているので、このままでOKにします。
まあ、概ねいいんですけどね、あと一息検討を望みたいという条件つきの、名作としましょう。この詩はもう一歩、良くなれる詩なので。
●エイジさん「風の生まれる場所」
グッド!!!
名作、且つ代表作にしていいです。
個人詩集作る時には、この詩を先頭に持ってきたらいいですよ。
心・技・体じゃないけれど、思考・情感・表現が三位一体にフィットした、とてもいい詩だと思います。
対象(この場合「風」)へのこだわりがまず良くて、いろんな場面の風や、架空の「風が生まれる場所」の話もしている。また、場所のみならず、その時の風がどんな風かということにも想いが至っている。構成もいい。またアタマでっかちにならずに、終盤は情感が色濃くなっていく。
それと詩全体に、作者の孤独感がある。これがこの詩の統一感であり、ムードともなっている。また、まずもって孤独感があるので、終盤の「君」に寄せるものも、実際にいる「君」に語っているわけではなく、どこか希望的です。そこがまた孤独をベースとしたロマンチックでいいのです。
読む人が皆、どこかに持っている孤独に、響くことでしょう。
うむ、言うことないです。
これは日頃、まじめにコツコツと精進してきたことが、開花した一作ですね。
●cofumiさん「灯りをさがして」
cofumiさん、たいへん申し訳ないんだけど、この詩は重症です。
この前、私の担当日に頂いた詩は、たまたま語呂合わせになってたから、異なる角度でもって評価しましたが、あれが良になったのは本当にたまたまですよ。あの時からもう詩形は崩れてて気になってたんですが、今回はいよいよもってダメですね。
あのーーー、私、詩の書き始めは、長く書くようにした方がいいよと言ったし、実は長い詩を書くよりも、短い詩を書く方が難しいんだよということも言ったと思うんですが、cofumiさん、それしなかったでしょう?
基本ができてないうちに、短い詩を書くのは危険なんですよ。cofumiさん、これ、私が危惧していたとおり、袋小路に入ってます。言わんこっちゃない状態ですね。
なんていうか、最初の感性だけで書く時期はもう終わって、今は基本の上に感性を生かす時期に変わってきてるんですが、ここに来て、基本のできてなさがもろに足引っ張ってる状態です。だから、一度、基本をやり直すことをした方がいいです。
2点して下さい。
1つは、誰か短めタイプの詩人の詩集を一冊読んでみて下さい。
金子みすゞでもいい。あの人、語り口には当時の時代性があるから真似しないでいいけれど、詩の構成力や比喩の展開の仕方は、現代でも充分通用する。基本を学ぶにはいいと思う。
村野四郎さんか、銀色夏生さんでもいい。まず1冊読んで下さい。
2つ目は、自分の詩形を一度クリアして下さい。今の詩形は捨てた方がいい。
詩集を読みつつ、自分に合った詩形、自分の新たな基本形となる詩形を、もう一度探し直してみて下さい。
今回の詩は、詩じゃなくて、平文(作文)の形で書いてもらった方が、ずっと気持ちが伝わったことと思う。今の詩形は、自分が伝えたいことを、自分で完全に潰しちゃってますよ。たぶん、平文で書いた時の5分の1も伝わってないと思う。そういう状態ですから、この書き方は、一度クリアしたほうがいいです。
すごく遠回りなことを言っているように聞こえるかもしれないけど、これが結果として、近道になるはずなので、お願いしておきます。
あのーー、最初は自分の才能だけで書けちゃうもんなんだけど、それはすぐに壁にぶつかる。そこから壁を超えようと思うと、詩人の詩集をはじめ「読むこと」(勉強すること)をしないと超えられないです。それは誰でもがそういうものだから、少し「読むこと」をした方がいいです。