MENU
523,072

スレッドNo.2220

評、5/26~5/29、ご投稿分。  島 秀生

大雨が続きます。
川の増水や土砂災害には、くれぐれもご用心下さい。
命を守ることを最優先の対応を。


●江里川 丘砥さん「発光」

初連はバツグンにいいです。

深く突き詰めていくところが、江里川さんらしくていいです。今回の詩にもそれがあって、そこはいいのですが、後半に入ったところで、ちょっとスッキリしないところがあるんですよね。せっかくテーマ性も構想もいい詩なので、もうちょっと時間をかけて、完成させた方がいいと思います。少し推敲不足です。

俗に「あの子、光ってるね」なんて言いますが、この詩における光とは、容姿と心と雰囲気というか、そういう体全体から発せられるもののことでありましょう。意味としてはそうなんでしょうけど、そういう総合体で詩のあちこちに置くのは難しいので、仮に「眼の光」のように扱ってはどうでしょう? 「眼の光」と考えると、自分の中の一部であり、自分というものに所属しているパーツです。「光」をこう位置づけて扱うのが、イメージがブレないでいいと思う。
前半はその位置づけでピタリ読めるのですが、後半はその位置づけで考えると、ズレてきてるところがあり、気になります。

6連、
 幼い光にたかり
 消費したあと

これ、どう読んでも、自分ではなく他者側にしか読めないんです。「幼い光」自体が、上記例でいうと、自分側ですからね。それにたかるのは「他者」。で、そこを他者で読むと、センテンスが続いている3行目も、他者になります。
ところが4行目、

 たかった者たちを

と、目的語として出てくる相手側も他者なんです。すると他者から他者へとなって、ここで意味が追えなくなる。
私、ここが全く読めない。6連前半、ギブアップなんです。

なので、5~6連については、ちょっと代案を出してみます。
4連から行きます。

 大人として見えはじめた世間は
 濁った灰色よりも
 もっと曖昧で薄気味悪い陰鬱
 その中に生きていた幼い発光体は
 よほど美しかったのだろう

 あの時の輝きによってたかってきた人たち
 冷たく濁り発光しなくなった時の
 丁度消えたその瞬間まで見ていた人は
 誰もいなかった
 光ることを失った私は
 ひとり暗がりに佇んでいたというのに

と、いうふうに私は5~6連は統合案です。この方が次の7連との接続もいいので。
ただ、作者として大事なことが抜けてしまっていたら、ここは書き直して下さい。

 他人事のような笑みを浮かべ
 まだ光って見えるのはなぜ

の詩行も大事なものが隠れてそうで、気になるのですが、ここで「光」を出すと、7連と噛み合わなくなるので、案では削除しています。

あと、7連なんですが、
6連までは象徴的な書き方になっているので、この流れだと7連の「懐中電灯」も、象徴的に誰かが邪魔をしたことの例えとして読むことになるんですが、私はなんとなく、ここはリアルな話のような気がした。不審者と間違われて、懐中電灯を照らされたりしたら、本当に憤慨してしまう。象徴よりリアルの方がキツいんで、もしリアルならリアルの書き方したほうがいいなと思いました。

今回、まだ未完成な気がするので、秀作にとどめます。
でも、もうちょっと煮詰めてもらったら、この詩はもっと良くなれる詩ですよ。
初連はバツグンにいいので、この完成度で全体書ければ、理想的。

ところで4連の、

 大人として見えはじめた世間は
 濁った灰色よりも
 もっと曖昧で薄気味悪い陰鬱

この見解は、3分の2くらい当たってる気がするなあー。


●山雀詩人さん「逆襲」

内容的には小品なんですけど、山雀詩人さんの着眼とワザで読ませる一作ですね。

時間が早く感じる時、遅く感じる時は、誰しもにあるし、朝の仕度にしても、同じことをしてるのに、なんでか時間に余裕が出る時がある。このへんは皆が感じるところ。そういう共通性の高い話題の中に、

 もしかして時間のスピードは
 必ずしも一定ではないのでは
 早い日 遅い日があるのでは

この思考を持ち込むところがいいですね。
これ、フツウふと思っても、誰しもが思った自分自身を否定してしまうところを、否定しないで、本気で考え始め、時計を擬人化して質問を始めるところが粋ですね。
また、

 先生が見てるときだけ
 まじめを装う小学生みたい

の比喩がグッドで、時計が小学生に見えてきます。擬人化に、より具体的映像を与えます。

まあ、エンディングについては、正直、途中でオチが見えてきてしまうんですけどね。でもまあ、ここへ行くしかないでしょうから、OKです。

特に不備はないんですが、内容的に、元々小品なのでね。秀作プラス止まりです。
お手並み、鮮やかでした。
今度、私も時計に話しかけてみることにします。聞きたいこと、いろいろあるんで。


●エイジさん「彼方(あそこ)」

ロジックはすごくおもしろい。しかも細かいところまで、しっかり考えて作られています。なので、あとは書き方をなんとかしたい。
これ、ホントはかなり理屈っぽい詩なんですが、理屈っぽい詩ほど理屈っぽさを感じさせないように書くというのがポイントですね。抽象系で描ききった方がいいと思います。


彼方(あっち)の人


それは文字と文字との間に
そっと浮かんでいて
いつでも笑みをたたえているのですが
どうしても読めないものです

それは音符と音符との間にいて
そっと佇んでいると思ったら
あちこち飛び回って
いたずらするのですが
どうしても聞こえないものです

それは彼方(あっち)にいて
時空と時空の間を行き来し
過去 現在 未来
の隙間にいたかと思えば
普段は時間にいないものです
どうしても感じられないものです

光の粒子の間を縫って現れ
音にならない音の中に
消え去っていくのです

彼方(あっち)のことを
記そうと思うのですが
第六感で一瞬感じたら最後
たちまちひとの感覚から
消えてなくなるのです

それは在るようでいて
それは消えているようでいて
明かりを灯したかと思うと
ふっと我々の寝顔を
覗きに訪れるのです

彼方(あっち)はどこかに在るのです
でもどことは言えない
ひとの意味の世界と
ひとの感覚の世界の
遥か遠くに在るのです


これでどうでしょうね? 
「あっちへ行く」っていう、言い方をしませんか? なので、読み方を「あっち」にしました(促音のほうがインパクト強いしね)。来世を想起させるタイトルにすることで、この詩の中で一番理屈っぽい初連をカットしました。
また、原文の2連、3連を少しずつ変えて、4連と合わせ、それぞれの終行が

どうしても読めないものです
どうしても聞こえないものです
どうしても感じられないものです

となる展開に変えました。
タイトル変更に伴い、4連と6連は「彼方」の読み方だけ変えました。
あと終連初行。この詩はそもそも「それは」がたくさん出てくる詩なので、キメとなる終連では「それは」は使わない方がいいです。ぼやけてしまいます。そこは変えました。

変更点は以上で、なるべく原文を残しています。
これで検討してみて下さい。
この詩は、元がいいので、ちょこちょこっと変えたら大化けしますよ。
検討して頂くことを条件の、名作としましょう。


●ロンタローさん「翡翠輝石の眠る丘」

詳しいところは専門家に聞いて下さい、なんですが、
翡翠輝石のスタートは、マントルと地殻の境目あたりに形成された蛇紋岩が、地殻変動により地表に運ばれる過程で、高圧と貫入による変成を繰り返してできる一つの形のようです。
つまり多くの鉱物と同様に、地下深くから地表へ押し出されてくるものであって、化石のように、過去に地上にあったものが、埋まっていくのではないのですが、そのあたり、方向性として、この詩は合ってるんでしょうか? ちょっとそう読めない詩行もあると感じるのですが・・・。

あらかたの産地は海外なんですが、日本でも糸魚川と青海川上流の2箇所だけ、産出される地があるんだそうです。いずれもフォッサマグナのところなので、翡翠輝石は、相当な地殻変動圧力がないとできないもののようです。神秘的ですね。
詩の上で、場所の名言は避けるとしても、具体的には糸魚川の例を調べられて、それを元に、詩にイメージされてみては如何かと思います。
なんといいますか、第一段階は頭に浮かんだことをイメージするままで書いたらいいんですが、第二段階では推敲の一環として、登場するモノにより、その事物を調べ、裏打ちを取る作業も必要になってきます。科学的・客観的な部分を知らないで書くのと、知ってた上で故意に飛躍させるのとでは、自ずと詩の書きようが変わってくるので、読んでる方にもその違いはわかるものですよ。
鉱物の詩については、今ちょうどHPの「お勧め詩集」で、鉱物好きの若宮さんの詩集を取り上げているので、そこも読んでみて下さい。
一歩前とします。


●秋さやかさん「泉」

うーーん、私は、秋さんの描く叙景は、過去から学びつつ、そのエッセンスを現代のもので展開していってくれている。あるいは現代の中に、伝統美の発展形を見つけてくれていってるのがいいと思っていて、結果として、いつも現代人の立場、現代に生きる人の方を向いて書いてくれている姿勢を評価してるところが、まず基本線としてあるので、この詩で旧かなを使われてること自体に、私はガッカリさせられるところがあるんです。姿勢がズレてると感じるからです。
いや、私の方で、秋さんという人を、勝手に定義してしまってはいけないかもしれません。無論、秋さんは秋さんなんですが、私の個人的な期待とはズレてしまったという程度には、受け取っておいて下さい。

私、この詩で好きなのは、最初の1~4連です。そこはぞくっとするほどいいです。

でも、8連「水鏡」あたりから、ボキャブラリーがものすごく限定的になり、別種のものになってきている。それは文字面を見てもらってもわかると思う。
普遍の情感ではあるんですが、ボキャブラリーに新しさがないので、現代人に響きにくい。やっぱり旧かなの口調に引っ張られて、情感も過去に戻っていってるような気がします。そこが残念。

もしかしたら、8連以降は、なにか参考にされているものがあるのかもしれませんね。あるいは、内容がプライベートに入ってきすぎた場合に、隠す意味でわざと使おうとする人もいますが(この場合は、その一部部分だけの使用でいいと思う)。

8連以降で良かったのは、

 選ばなかつた世界は
 魚たちの夢のなか
 
 いつからか繋がつてしまつた
 からだと揺り椅子と窓を

この2箇所かなあと思います。
1~4連といい、ここといい、むしろ抽象派寄りの現代抒情表現にも持って行けた気がしてるんですが、なんで旧かなと旧かな抒情に行ってしまったものか、謎です。
秀作にとどめます。


●理蝶さん「消えた人参」

放課後いつもウサギ小屋に行くところは、孤独感をよく表しています。この時期、主人公の友達はウサギだけだったのでしょう。単にウサギがカワイイだけでなく、特別の感情を抱いていることがわかります。それだから、大人になったのち、学校に行っても、一番先に行くのは、ウサギ小屋なのでしょう。
4連で、ニンジンの出どことなる夕飯のカレーを描いたところはグッド。
再会場面の、雨とポケットの中のニンジンの情景も、とても良かったです。
ちょっと雑なところがあるんですが、構想はすごくいいし、印象に残る詩なので、以下述べる細部を自分で検討しておいてもらう条件で、名作にしておきましょう。

一番気になるのは6連、

 生憎の雨だがウサギ小屋へ向かう
 もう今はウサギは飼っていないそうだ
 時代だ、知らない先生はそういった

ここちょっと、走りすぎですね。

ここのイマジネーションなんですが、ウサギ小屋って、校舎の裏手のほうにありがちなものなので、学校入ってすぐには見えない。だから「ウサギ小屋へ向かう」は「ウサギ小屋の方へ向かった」の意だと理解した。そしたらウサギ小屋がないので、職員室に戻って、ウサギはもう飼ってないのかと先生に確認するに至った。
と、いう流れに感じて、私は第一印象読んでしまいました。

どっこい、この詩は、ウサギはいないけど、ウサギ小屋は残ってるパターンなんですね。いうと、もっと時間が経つと、上記のような小屋ごとなくなってるパターンになるはずなんですけど、ウサギがいなくて小屋だけある、という方がむしろすごく暫定的パターンなんですよね。だから、このパターンであることは、しっかり書いた方がいいです。

ここね、たぶん卒業して数年しか経ってない人と、10年以上経ってる人との意識の違いというか、作者は当然、ウサギ小屋があるものだと思い込んで書いている。そこに走りすぎ感が生じる原因があるように思います。

だから必要なのは、学校に入ってのち、ウサギ小屋の方に行き、前の場所にウサギ小屋が変わらずあることを、まずは確認するシーンをワンステップ入れた方がいいってことですね。

クライマックスであるラスト2連は、「網」にせよ、「風見鶏」にせよ、建物が大きくものを言うシーンですから、事前に6連において、まず建物の存在を再確認するシーン入れるのは、伏線としても重要です。
作者はそこを、「当然あるものだ」で済ませちゃってるとこが良くないです。

あとは、細かいところ3点。

2連3行目。
 溢れそうなほど → 溢れそうなほどの

と、「の」を入れた方がキレイだと思います。

3連2行目。
 古いコピー機みたいに → 古い湿式コピー機みたいに

いわゆる「青焼き」のことを言ってるのかな? と思うので、この書き方のほうがわかりやすいかと。
(ちなみに、湿式コピー機は、A3よりも大きなものが刷れるので、図面とかやるところでは、今も現役だったりします。)

7連2行目。
3行目との対照を成そうとする2行目の意図はそれで合っているのですが、もうちょっと対照性をくっきりさせましょう。3行目を生かすためにも。

 雨がしとしと降っている
 きっと雨はにぎやかなこの町のあらゆるものを濡らしてゆくのに
 今ここに降る雨はなぜこんなにも寂しいのだろう

こんな感じの方がいいかな? と思います。


●るり なつよさん「ポケットの小さなハンカチ」

おお、るりなつよさん!! お久しぶりです。おかえりなさい。
掲示板、長いことやってていいのは、たまに帰ってきてくれる人があることです。誰かの「帰ってこれる場所」になれてるなら、嬉しい。

作品ですが、お子さんを描いたシリーズは、るりなつよさんの詩の大きな柱ですね。他のテーマのものも書かれますが、お子さんのシリーズについては、一貫してずっと書き続けられています。
ハンカチへの着眼、ステキです。ポケットとハンカチという「物」を中心に、その変化を描きながら、それに纏わる「人間」ドラマを浮かび上がらせています。より具体的に言うなら、ポケットの右と左に二つ入れていたハンカチの一つ、左側のハンカチが、母のポケットから子のポケットへと、居場所を移動することになった。そこに子の成長を喜ぶ心と、一方で自分の手を離れていってしまう部分がある寂しさが、同居しています。されど、どちらも愛してるが故のものなのです。読者としては、母から子への愛情をたっぷり感じさせてもらえる作品です。
いい詩だと思います。モノから入って人に至る、着眼とアプローチがステキです。それにタイトルも適切です。これは「ハンカチ」だけでなく、「ハンカチ」と「ポケット」のコラボ作なんですよね。ちゃんとわかってらっしゃる。
秀作プラスあげましょう。

一点だけ。
ラストはきちっと押さえたいので、2行に分けて、

 手と手は今も
 繋いだままで

こうした方がいいでしょうね。


●妻咲邦香さん「春眠」

ミーアキャットはサソリが主食。大きな動物からはさすがに隠れますけど、性格は結構、獰猛。(ま、いいか)

象徴的に書かれてるので、あまり回答を望んでない気がするけど、なんらかの形で読まないと全体の大意が取れないので、私なりに、3連の「お皿は既にからっぽだ」は、背の高い木々の新緑と、動物園のエサ皿のからっぽと、自身の心と体の空腹を、全部からめたかな? の感じに。4連と終連の「歌」は、なにか特定の歌ということでなく、動物たちに野生に還れ、作者においては本来の自分自身に還れ、の意で「自然に戻る歌」として言っているかな、の感じで読みました。個人的には1960年代のPOPSの名曲が頭に流れてましたが。

読みどころは3連ですね。

 枝々は一斉に手を伸ばす
 きっと握手がしたいんだ
 雪形も消える頃には
 手のひらを出来るだけ増やして
 競い合う、お互いに
 それはおそらく私の咆哮でもある

ここの丁寧な表現がステキだなと思って読みました。
こういう丁寧に積み上げる表現、書こうと思えば書けるのだから、もっとすればいいのにと思いました。なんか途中ではしょるというか、投げ出すというか、しがちなんですよね。その折に考える優先事項が、作者の場合、ちょっと違うんでしょうね。

あと「タイトル」も、ちょっと謎。弱いから寄り添っている調の書き方になっているので、そこからは、「ブルブル震えて寄り添っている」のイメージが想起され、「寄り添って眠っている」は想起しにくい。なにしろ「眠っている」の語も「眼を閉じている」の語も、なんにもありませんからね。タイトル「春眠」ののんびり眠ってる感と、どこで繋がるのかわからない。タイトルの方がおかしいのかも。

出だしの入り方が良くて、そのあとに大きなものを読ませてもらえそうで、最初期待したんですけど、そこまででは。
秀作を。

編集・削除(編集済: 2023年06月09日 02:58)

ロケットBBS

Page Top