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スレッドNo.2228

感想と評 5/30~6/1ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。5/30~6/1ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●理蝶さん「路地」
理蝶さん、こんにちは。初めての方ですので、感想を書かせていただきます。

何やらハードボイルドな設定ですね。私も海外にいたときなど、治安の悪い地区は昼間でも近づくことができないところがありました。そんな都会の薄暗い路地に迷い込んだ「彼」を厄災が襲います。

この詩は実際の犯罪行為を描写しているようでもありますが、人生のメタファーという読み方もできるかもしれません。特に都会に生きる人間にとって、一歩間違えれば取り返しのつかない悲劇が待っている「路地」があるのでしょう。そう考えると、首に巻き付いてくる「黒いタイ」にも何か意味があるのかと思えてきます。

いろいろなことを考えさせられる興味深い作品でした。またのご投稿をお待ちしています。

●喜太郎さん「地球最後の日」
喜太郎さん、こんにちは。「明日世界が終わるとしたら何をするか?」というのはよくなされる質問ですが、意外と「いつも通り過ごす」という人が多いように思います。この詩はそんな選択をした夫婦の姿が描かれています。

この詩は世界の終わりに仮託して語られていますが、中心的な主張は
「何も無い日常ほど大切で貴重だと気付いたのだ」
ということだと思います。愛する人と過ごす、何の変哲もない日常のありがたみ、それを噛み締めている作者の思いが伝わってくるような、ほのぼのとした気持ちにさせられます。

そんなメッセージをSF仕立ての設定に込めているのがこの詩の面白さでもあるわけですが、その設定の作り込みが不足しているために、あまりリアリティを感じられなかったのが残念でした。どのような原因で世界が終わるのか、簡単でもいいので説明が欲しかったですし、世の中がいつも通りというのもどこか現実味がありませんでした。むしろ社会が大混乱している中、「私と妻」がいつも通り過ごしているというふうにした方が説得力が増したかもしれません。

この詩は少し手を入れるともっと良くなると思いますので、考えてみてください。評価は「佳作一歩前」となります。

●積 緋露雪さん「目玉」
積さん、こんにちは。初めての方ですので、感想を書かせていただきます。

私たちの目に見えている「世界」は実際の世界そのものではない、という哲学的思考を綴った詩ですね。私たちには世界そのものは決して認識できない、いやもしかしたら世界そのものが妄想かもしれない、そんな果てのない思考に「俺」はあえてはまり込んでいき、しかもそのことを楽しんでいるようにも思えます。哲学者というのはこういう種類の人々なのかもしれませんね。

それをただ書いたのではなかなか詩にならないところを、「ぎろり」と世界を見つめる「目玉」を中心に描いているのが、なんとも言えない独特の雰囲気を醸し出しています。旧仮名遣いで書かれているのも味があって良かったです。またのご投稿をお待ちしています。

●森山 遼さん「僕は僕の知らない遠くへ行く」
森山さん、こんにちは。人は生きている限り「自分」という存在から逃れられないわけですが、でも自分でない存在になりたい、「自分」がいないところに行ってしまいたい、という願いを感じることはあると思います。そういうかなわぬ願いを追い求める「僕」の葛藤が描かれた詩ですね。

僕はもう長く
僕とつきあってきたから
疲れたんだ

の部分から、その思いがよく伝わってきます。そんな「僕」を呼ぶ声がする。それが誰なのかは明かされていませんが、私は何となくあの世からの呼び声のような、不吉なものを感じました。

自分が自分でなくなる遠いところに旅立ちたい。けれども死んでしまいたいわけでもない。そんなどうにもならないやるせない気持ちが「きのうのつめたい死んだコーヒー」という表現にも表れています。この表現はとても良いと思いました。

最後の部分は正直よく分かりませんでしたが、結局「僕」は冷めたコーヒーを飲みながら想像の世界に旅立った、ということかと解釈しました。最終行の「sayonara」がローマ字で書かれているのは、自分が自分でなくなっていく様子を表したものかもしれません。

構成的に言いますと、内容的に最初の11行と残り7行の間に区切りがあるような気がします。前半でどこかへ行ってしまいたい、という思いがいつの間にか死への思いに向かって行くのに気づいて、「だけど僕は死んでしまいたくはない」と我に返り、冷めたコーヒーを飲みながら想像の世界に遊ぶことに甘んじる、という展開かと思います。もしこの解釈が正しければ、この2つの部分の間を1行空けた方がいいかもしれません。

細かい点をもうひとつだけ指摘しますと、最後から2番めの行の「僕の知らない遠くへいく」の最後はタイトルと7行目に合わせて「行く」と漢字表記にした方が良いと思います。

全体的になんとも言えぬ哀しみが伝わってきて胸を打たれました。評価は「佳作」です。

●樺里ゆうさん「探していた」
樺里さん、こんにちは。思春期の頃は自分が何者なのか、アイデンティティを探している時期だと思うのですが、その場合の「自分」とは「他者の目に映る自分」であることが多いんですよね。この詩ではそれが「他人という鏡」と表現されていて、なるほどと思いました。

けれども、そういった年代を通り過ぎた現在の「わたし」はもはや他者の目を気にすることもなくなりました。

あの頃のわたしは
他人とちゃんと向き合っていたとは言い難い

という部分は、昔の自分に対する客観的な視点が感じられます。この詩は全体的に若かりし頃の自分に対する冷めた視線が印象的ですが、それで過去を切り捨ててしまうのではなく、そういった「鏡探し」の時期があったからこそ今の自分がある、と肯定的に捉え直しているところに「わたし」の成熟した人格を感じます。それでいて最後は深刻ぶらないで「なんてね」と締めくくるところがとても良かったです。評価は「佳作」となります。

●紫陽花さん「紫陽花に戻っていいですか」
紫陽花さん、こんにちは。名前は私たちのアイデンティティの重要な要素ですね。けれども子どもは自分で名前を選ぶことができませんので、親に付けてもらった名前に対して様々な思いをもつことがあります。この詩では普通には読めない名前に対する「私」の葛藤が描かれています。

学校で病院で店で
何千回も何千回も

の部分はその大変さがよく伝わってきました。そしてついに平仮名表記にすることにした。「私」にとって、それは自分でアイデンティティを決め、親から自立する一歩でもあったのでしょう。けれども一方で、それは親から受け継いだ大切な遺産を手放すことにもなる。「父」が亡くなって、「私」はそのことに気づき、ふたたび「紫陽花」に戻ります。ある意味で、亡き「父」は紫陽花(ひさえ)という名前を通して「私」の中に生き続けているのだと思います。

最終連も「父」から授かった名前への誇りが伝わってくる心温まる終わり方でした。評価は「佳作」となります。



ここからは評から離れます。冒頭にも書いているように、私は基本的に投稿された詩の作者さんと詩中の語り手は区別して読んでいるのですが、もしこの詩が作者ご本人のことを書かれているのだとすると、これまでずっとお名前を間違えて「あじさいさん」と読んでいたことになりますので、本当の読み方が分かってよかったです。紫陽花(ひさえ)さん、良い名前ですね。

●朝霧綾めさん「アイスブレイクは砂糖がとけるように」
朝霧さん、こんにちは。初めての方ですので、感想を書かせていただきます。

世の中には初対面の人となかなか打ち解けられなかったり、人見知りしてしまって話しかけにくい人が多いようです。だからこそビジネスや学校などで顔合わせの時に緊張をほぐすための「アイスブレイク」がよく行われるのですが、「私」にとって初めての人と知り合うのは、ティータイムのような楽しみなのでしょう。冷たくて固い氷を、さっと溶けてなくなり、しかも甘みを与える砂糖というイメージで置き換える発想はとても新鮮でした。

この詩は全編このポジティヴな思考と他者への信頼に貫かれていて、とても爽やかな読後感を覚えます。またのご投稿をお待ちしています。



以上7篇、今回も読み応えのある作品に出会うことができました。ありがとうございます。

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