6月13日(火)~ 6月15日(木) ご投稿分 評と感想です (青島江里)
◎6月13日(火)~ 6月15日(木) ご投稿分 評と感想です。
☆WATASI UMARERU 森山 遼さん
宇宙、永遠、生命。
今回はかなり壮大なものについて、取り上げられていますね。
一連目から三連目。宇宙から、徐々に地球に視点があてられる感じが伝わってきました。個人的に、三連目から四連目。前世は日本に生まれた人間で、何らかの理由で命を失い、今は星の魂として宇宙に存在しており、地球を懐かしく恋しく感じているというように思いました。前世で、静かで永遠にかなしみのない世界に行きたいと思ったと解釈したら、それはそれはとてもかなしすぎます。このように読み進めていくとしたら、最終連には希望の星の光がみえてきそうです。輪廻転生でしょうか。もう一度生まれ変われることができたように思えるので。
全体的に抽象的なシーンが多いように思えたからなのか、読み進めることにいつもよりも時間がかかりました。個人的には、宇宙、永遠、生命と、直接手に触れたり、形を見ることができない壮大なテーマが三つもあるので、重点をおくテーマを縮小させてみてもよいかなと感じました。今回は佳作二歩手前で。
☆死者へ 積 緋露雪さん
生まれたものであれば、避けて通ることのできない死。一旦いってしまったら、生前と同じ場所に同じ状態で戻ってくることはできないから、誰もその世界を教えることのできない死。色々な説や体験談などを目にすることもありますが、きっぱりとこうですと誰も言い切れない世界ですよね。
死について一生懸命考えている積さんの姿が浮かんできました。普段通りの生活のルーティンをこなしながら、じっくりと考えることのできないテーマです。だけど詩を書くということなら可能なのですよね。トコトン自分で自分の納得のいくまで考え、表現することができますよね。そう考えると詩を書くことのできる時間ってすごいなって思ったりもします。
私は、その日その日を生きることで、いっぱい、いっぱいで、ゆとりのない生き方をしているなぁと思います。億病者なので、そんなに心が強い人間ではないので、死という言葉を意図的に避けてきたかもしれません。今回、この作品を拝見して心に残った言葉があります。
死者に手を合はせるために
生者は生きてゐるともいへる
今は吾は精一杯生きるのみ。
それが唯一、死者の弔ひに相応しい生者の姿勢なのだ。
精一杯生きることがどういうことなのか。作者さんの深い思いを感じました。死という言葉を前面に出していますが、読み進めていくと、生という言葉が浮かび上がってくる、そのようなことを思わせてくれる作品でした。
☆夏の足踏み 喜太郎さん
夏のダンスナンバーのような言葉たちですね。詩作の途中、リズムのようなものが頭の中に浮かんできたのではないかと思わせるような流れもありました。
タイトルは「夏の足踏み」ですね。「夏のステップ」としないところがいいなと思いました。足踏みとすることで、夏を待ちきれずにソワソワしている気持ちが伝わってきたからです。
紫陽花の花が色付く様子を心にたとえられたところは、ロマンチックな面もあり、紫陽花のハートの形の花びらを目に映らせる色彩の美しさを醸し出していると思いました。
ノリノリなダンスナンバーのような軽快な流れがあり、読み手に気軽に詩を読ませてくれうというところがありますが、個人的には、ここが見せ場ですねと思わせてくれる一連や、一行があったらなぁと思いました。例えば、最終連の「楽しい雨の日々」の部分ですが、もう一つ深く踏み込んで、「遠足の前の子供のよう」の子供というところにズームして、雨の日に思いっきりふざけて水たまりに入ってはしゃぐ子供の心のようなシーンを結び付けてみるのもいいかもしれないですね。一歩踏み込むことで、その前の単体の「ワクワク」と「ドキドキ」の単語にも深みを持たせることができるような気がしました。今回は佳作一歩手前を。
☆さよならマスク 大杉 司さん
コロナ禍も初めの頃に比べたら、いくらか落ち着いてきましたね。まだまだ油断できないですが、周辺を見渡すと、マスクを外して歩く人の姿も見受けられるようになりましたね。
三連目。マスクの期間を経験してから感じたこと。コロナ禍の前ではそんなに感じなかったことが綴られていますね。当たり前のようで当たり前でないくらしの喜びを感じさせてくれました。四連目。「空気や人情も豊かになり」とありますが、この部分の「空気」という言葉を使用されているところがいいなと感じました。なぜって?それは、やはりマスクの生活を強いられてきたからでしょう。「空気が豊かになる」っていう表現。ほんと、とっても素敵ですね。四連目と五連目ですが、「・・・・・・」や「そんなこんなで」を使っていますね。色んなことを一度にまるっとまとめてしまいたい感がでているので、色々考えているうちに日が落ちたということを、作者さんなりにまとめられるのもよいかと感じました。
最終連のマスクをゴミ箱に捨てるシーンですが、この作品が伝えたい意味を感じました。しているマスクを捨てる日常から、置いてあるマスクを捨てる時期が来たと感じる作者の思いが伝わってきました。そして「さよなら」という言葉。ただ単にお別れのさよならではなく、ありがとうがその中に込められている・・・・・・そう感じさせてくれるさよならのある一作でした。今回は佳作半歩手前で。
☆ひまわり じじいじじいさん
絵本のようなカラフルな世界。みつばちの色、チョウチョの色。具体的にはしるされていませんが、ひまわりの鮮やかな黄色があるから、想像しているシーンも勝手に色付きになっていきますね。
ひまわりの黄色は鮮やかで、たしかに笑っているようですね。笑顔につられて周りのみんなが集まってくるっていう気持ちもうなづけました。
最終連の三行「おそらの~みんなだいすき」は童謡のような響きがありますね。とても明るい作品。個人的には、あともうひとつ、子供さんに向けた作品として冒険してみてもよいかなと。子供の頃、クラスメートが太陽の詩を発表していたのですが、それがおかしくて、何十年も前の話ですが、ひまわりの作品を拝読して思い出しました。その子の作品は、最初は太陽について書いていたのですが、途中から太陽をヨーヨーにしてあそびたいだとかになったりして。ノーマル+少しの遊びがあった作品だったなぁと。少しの遊び。作品の内容にもよりますが、機会があればお試しされるのも楽しいかと思います。今回は佳作一歩手前を。
☆空飛ぶ魚 山雀詩人さん
朝日に夕日の美しさ。これだけは何度見ても飽きないですね。
これぞ、自然のプレゼントですね。
太陽の夢のような美しさからの突然の現実。なかなか意表を突かれました。止まることなく、思いはひた走り、魚が空を飛んで水のない陸の世界をいく連へと突入。これはもう、圧巻のテンポとスピードを感じさせてくれました。
ただ、そこから先の八、九、十連のあたりなのですが、個人的にはこの部分にひっかかりを感じました。仮に魚の身になったとして、はたして自分は太陽が美しいと思う余裕があるだろうか?ということと、「美しい世界をみることができたから死んでもいい」という気持ちと「死んでもいいくらいの美しい景色を見て感動した」は、ちょっと違う気がして。
オオワシと魚のシーンは、勿論、想像の世界ですが、たとえにするのには、個人的には無理があるような気がしたのです。オオワシからの景色の、しかも最後のプレゼントということですが、「プレゼント」という言葉にもひっかかりがありまして。魚にくる迫る死に対してからの「プレゼント」となると、諦めに送り付けるもののような感じになって、感動に結びつけようとするのは、難しいかなとも感じました。なので、たとえをもう少し変えてみることも一考かと思いました。
こちらのシーンさえうまくいけば、自然の美しさをバックにした、スケールの大きな作品になると思いました。今回は佳作一歩手前で。
☆誤診 やまうちあつしさん
一瞬、樹医のお話なのかと思いきや、そうではありませんでした。読み進めていけばいくほど、横たわる一本の木は、一人の人間にも思えてきますし、もっと深堀していこうとすると、一人の人間という想像を超えて、ひとつの現代社会、或いは人類全体についてのことにもみえてきました。また、一本の木が人間社会を見つめていて思い詰める心の風景を描いたようにも思えます。読み手によって、色々なパターンでこの詩を拝読することができそうです。
そういえば、付き添いで病院に行ったとき、よく見かける場面があります。思い出話をひたすら受付の方や看護師さんに続ける患者さんの姿。半分困っているなと、はたから見てもわかるのですが、本人はわかっているのかいないのか、ひたすら語り続けているのです。こちらを拝読している途中、自然にその場面が浮かんできました。
太い幹を失うという場面では、人間の弱さや自然介入等に対する傲慢さも感じました。一本が森羅万象に詰られて人間の病院に身を寄せるという発想はとてもユニークでした。そこから、高度な医療技術はあるものの、若く熱意ある医師が、人手不足などで充分に患者さんとの時間がとれないという現実に繋げていく表現法、とても上手だなと思いました。
発想がとてもユニークで、切り口がたくさんあり、読み手が色々な方向から詩の世界にアプローチできる作品になっていると思いました。
☆強がり ピンボケに気づいた大人さん
暮らしていくって、どこか歩いていくことに似ていますよね。そんな思いが底にあるので、拝読させていただいた後に感じてしまうのです。ずっと歩き続けていくことなんて無理だから、立ち止まることも普通にアリだと。歩いていくと色々な景色があるように、暮らしていくという心の世界にも色々あるよねと。こちらの作品は、もしかして自分だけ?という不安を包み隠さずに書かれていると思いました。
六連目ですが、この部分に気になることがひとつありました。一連目には、右足を踏んで左足を上げるそれができてしまう自分に呆れる」となっていますが、六連目では、右足を踏んで左足を上げるということについて、羨むという表現になっています。とり方にもよると思うのですが、もし私が書くなら「君を羨む」を「君が通り過ぎてゆく」くらいにして、他の人のことは気にしませんテイストにするかな。一連目で否定していた感じと繋がるような気がしたのです。
この作品を拝読して感じたのは、詩は、誰に相談することができない日も、書き表すということで、自分対自分の対話が可能になるということでした。ひとりごとでは何もならないことでも、書き表してそれを読み直すことで改めて自分を知ることができ、もっとうまくいけば、さらによい答えを得ることもあるということでした。最終連の立ち止まるからのひとこと「お先にどうぞ」は、とてもよかったです。強がりではなく、やさしく強い言葉として響いてきました。
☆ケイちゃん 紫陽花さん
経管栄養実習のための人形、ケイちゃん。年齢まである。読後、感じたのは、ケイちゃんが本当の人間のように思えたこと。それはなぜかなと思ったのですが、作者さんの目線が人形だという目線でなくて、患者さんであるという目線になっているということからきているのかなと。
顔が白くて、男性で、胴体は透明で。ひとつひとつ語っているうちに、読み手にも、想像上の輪郭がうかんできました。「私」が直接触れていれる点滴。紫の色。おなかに入るところで、栄養剤の動いている様子が伝わってきます。どこか生きているように思えてきました。
でも人間じゃないと我に返るのは「栄養剤はラベンダーの香り」というところ。登場する先生の大げさな反応も面白く。受講生に対する優しさも感じられ。
この詩のメインとなるのは、声が聞こえるというところ。確か不確かかは、決定づけることのできないものでありますが、理由の一つとして、何年もケイちゃんに寄り添ってきたケイちゃんの愛情をあげていますね。くどすぎることのない表現で「ああ、もしかしたらそうかもしれないね。」と、読み手に思わせてくれるところがよかったです。
最終連もよかったです。「私にはまだ彼の声は聞こえない」という一行。先生に対する尊敬の念も感じられましたし、相手に優しい実技を習得したいという深い愛情をその裏に感じることができました。佳作を。
☆祝福 妻咲邦香さん
おめでとうという側と言われる側の複雑な、微妙な心の間のようなものを描かれているように感じました。
一連目「おめでとう」について。「そう言って電話は切れた/あとはよく覚えてない」→このおめでとうは「あなた」が言ったものと思ったのですが、四連、五連になると、おめでとう~それだけ伝えられたらとなっています。だとすると、一連目は誰が言ったのか。「私」が言ったのか。そうならば、「そう言って電話は切れた」という相手側目線の表現ではなく、「そう言って電話を切った」になるのではないか。そのようなことを思ってしまいました。
私の中では、そのように置き換えることで、あとの連につながりました。私が感じた世界は、おめでたいことがあって、「あなた」から知らせの電話が入ってきたが、心から言ったつもりだけど、心の奥底からふつふつの沸き上がってくる別の感情をどうにかしたいというどうにかしたいというようなものを感じました。
祝福することについての内容なのですが、霧に包まれているような視界のはっきりしないような雰囲気なので、個人的にはあと少し、どのようなお祝いの場面なのかということが、わかればよかったなと思いました。そうすれば、二連目の優しい引鉄の詳細についても、読み手としての私自身、一歩踏み込んで入り込めたのかもと思いました。
全体をみつめると、今回の作品は、おめでとうという言葉を通じて繰り広げられる、互いの心の内側や、どこまで探りあっていいのかわからない不安、そしてどこからともなく沸き上がってくる切なさのようなものを感じさせてくれる作品になっていると思いました。今回は佳作一歩手前を。
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気が付けば、もう六月もあと少し。一年も半分が過ぎようとしています。時間に追われすぎないように。追われすぎて疲弊しないように、自分の時間を大切にすることを忘れないよう、過ごしていけたらと思うこの頃です。
あとどれくらいで梅雨があけるのでしょうか。気温の変化にお気をつけ、どうぞお元気で。
みなさま、今日も一日おつかれさまでした。