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スレッドNo.2384

評、6/23~6/26、ご投稿分。  島 秀生

・HPの編集雑記にも書いたんですけど、MY DEARを始めてから数年間ぐらいは、ネット検索で「MY DEAR」と叩いても、うちしか出なかったんですけどね。いま、「MY DEAR」で検索すると、山ほど出るんで驚きます。
いちおう、「うちが元祖です」と、主張しておこう。

・昔、私が山野草に凝ってた時の名残りで、うちには「マルバマンネングサ」が30年程前から、庭の隅っこで細々と生きてたんですが、去年、カミさんに雑草と間違えて引っこ抜かれてから、とうとう息絶えたようです。まさか今年、話題になる草とは・・・。去年まで我が家にあったんですけどね。

・「8日(土)~9日(日)は、九州北部(山口県含む)や中国地方~北陸地方を中心に過去最大級の大雨の恐れ。」と出ております。すでに大雨が降ったところでは、土砂崩れの危険度が高まっていますので、重々ご用心下さい。命を守ることが最優先です。


●朝霧綾めさん「幸せだから」

気持ちはわかるなあー
実際問題として、例えば電車の中とか、公共の場の群衆状態のところでは、いろんな気持ちの状態の人がいるから、へらへら笑うのは控えないといけないですよね。テクニックですけどね、いいことあって、ついニヤニヤしてしまう時は、本を開いたり、スマホ画面を見たりすると、実際にはそこを見て笑ってるわけじゃないんですけどね、傍目には、本やスマホに何かおもしろいことがあって、この人は笑ってるのかな?ふうに見えるので、カモフラージュになりますよ。
集団の中にいる時って、難しいですよね。へんに自意識過剰な人もいますから、全然違う方向見て笑ってても、自分を見て笑ってるんだみたいに、全部自分にくっつけて考える人もいるんで、うっかり笑えない場面が、実際問題、ままありますね。集団の中にいる時は、一人で黙って小さくガッツポーズしとくぐらいが、他者の誤解を招かなくて無難に思います。

おっと、話がちょっと、詩を離れて、現場での話に脱線したかもしれません。
この詩はもっとピュアなキレイな気持ちで書いてくれています。他人への気遣い、もっというと他者の人生まで思いやることができる人なんだなあと感じました。
この詩はこれで、一つの論、境地に至っているので、短めですけど、これはこれで完結するしかない気がします。
ただ、終連のラスト3行は、5連の思考を深めたものなので、その対応をくっきりしたい意味で、ちょっと順番だけ変えたい気がします。

 だから私は
 笑いもしませんし 歌いもしません
 
 幸福感で鋭敏になった
 やさしさや善の感覚が
 私にそうすることを求めるのです
 
 愛想が悪いように思われるでしょうけど

この順番の方がいいような気がします。私は。
まあ最後は、

 愛想が悪い女で
 すみませんね

くらい言っちゃうのもアリですけど、ここは作者の語感なので、勝手に言えないので、お任せします。

この詩はこれで完結するしかない気がするので、秀作とします。


●凰木さなさん「市営住宅」

ふーーーん、おもしろい詩ですねえ。
まずもって、雑多に混じる音を、丁寧に一つずつ紐解くように、描いていってくれてるのがいいです。もうここにセンスを感じますね。
でもって、作者がこの生活音を、決して嫌ってるわけでもないとこがいいです。

一点だけ気になるのは、作者の位置ですね。市営住宅に住んでる人である可能性もありますが、私は案外、歩いて通過してる人のような気もしてるんです。通い慣れた道にある市営住宅を、外から見てる感じにも思えます。あるいは住んでいるけど、帰ってきて、まだ部屋に入る前の、外にいる状態の時に捉えたものかもしれません。
この詩にあと、作者の位置、市営住宅を見ているスタンスが掴めるものが加わると、さらに良くなる気がします。

凰木さなさんは、私は初めてなので、初回は感想のみになりますが、期待できる人と見ました。また書いて下さい。


●まるまるさん「娘に思うこと」

ああ、それねえ、親子でも基本的に同性にキビシク、異性に甘く、なりがちなんよ。それに上の子の時は、親としても初めての学年をずっと経験していくことになるけど、下の子の時は、その学年、親としては上の子の時に経験していて、2回目になるから、勝手がわかっているので、なんとなく余裕がある。というわけで、それ、環境的に、上の子に神経質になりがちなのも、お察しできます。でも親のそのことが、上の子の負担になることがある。

 入り方が 違う
 見るだけなのに 身構えた
 知らなかった
 どっちもこの家の子なのに
 どうしよう

この「入り方が 違う」の気づき、すばらしいですね。
これ、自分でよく気づかれたと思う。(時に自分を客観で捉える、詩の視点が役に立ってたりして・・・。)均等に見てないことに、早めに気づかれて良かったです。
子供の方から話しかけてもらえる状態が、一番いいと思うよ。

冒頭で、「ああ、もどかしい」の状態に陥ってたとこも、わかるなあー
これ、世の親に、ありがちな話で、学びがありますね。

終連の、決して驕らず、

 気付かなかったら たいへんだった
 よかった 少しは
 遅かったけど

控えめなとこもいいと思う。

うむ、名作あげましょう。


●江里川 丘砥さん「忘れない」

ここの連、すごくいいですねえー!!

 ぼくが今
 立っているのは
 だれかのかなしみでできた
 結晶の切っ先
 随分前によろこんだだれかの
 手のひらから打ち上げられた
 花火の真上
 そこにぼくが
 新たな結晶をつなげ
 次の花火を打ち上げる
 
 そうやって
 ぼくらは
 つづいていくんだ

ゾッコンでした。

この詩の思考はとてもステキですね。
誰かの心に残ってるかぎり、その人の魂は死なないっていうけれど、なにかそれ以上に、物理的にどこかに残っていて、その地に立った、その場に居合わせた、知らない人から知らない人へも、受け継がれていくもののように感じさせてくれる思考でした。それくらい広範なものならば、絶対無くなったりしないよね、
情感が籠ったステキな思考を読ませてもらいました。それに3連の表現も、5連の表現も、その思考が体現されたかのような表現で、良かったです。

これ、江里川さんにしたら、ちょい短めの作なんだけど、その地で立ち止まって叫んでいるようで、これはこれでいいと思う。名作を。

1点だけ。ラストの3行なんですが、

 きみのことは
 ぼくが
 忘れないから



 きみのことを
 ぼくは
 忘れないから

の、どっちかかな? と思います。


●大杉 司さん「蒸し暑い夜」

日中はもう本格的な夏ですけど、最低気温はまだわりと25度切ってくれているので、もし夜風を入れられる環境でしたら、まだわりと夜の外は涼しいですよ。でも来週はいよいよ熱帯夜突入ですから、それももう無理でしょうねえ。クーラーのタイマー入れて、寝て下さい。
それはそれとして、DCモーターの扇風機はあこがれです。自然風に近いらしい。

扇風機ってわりと長持ちするので、うちにある扇風機もいつ買ったかわからない代物ですね。何十年レベルだから、いつ止まっても不思議ではないといえば不思議ではない。この詩においては、扇風機に文句を言ったら、怒ったごとくに止まった感ですね。ツイテないというか、このあと、いよいよ暑くなって、寝苦しかったことでしょう。ユーモアの一作ですが、当人は寝苦しくて、ユーモアどころではなかったかもしれません。

パーツでは、

 我慢すれば良いのだが
 はっきり言って無理
 誰が何と言おうと
 無理なものは無理!

この連、潔くていいですね。

話としてはできてるんで、あとは切れ味だけですね。
後ろ3連ですが、

 起き上がって僕は
 体を扇風機に近づけ
 しばらく涼むことにした
 汗が滲んでいる
 
 今夜の蒸し暑さは異常!
 この状態がまだ続くのかと思うと
 うんざりする
 
 夏こそ睡眠は大事なのだ
 嫌嫌でも寝なければ
 ようやく汗が引き
 この隙に僕は寝ようとした
 
 すると今度は
 扇風機が動かなくなる
 
 また汗が出てきた
 冷や汗まで吹き出してきた

こんな感じでもいいかな?と思います。ユーモア系は切れ味が大事。

なお3連の「扇風機には申し訳ないが」は、「申し訳ないが」が不要で、「扇風機よ」でいいと思います。そこは強めの言い方で、命令調だからこそ、ヘソを曲げて止まったのロジックになった方がいいと思う。

まずまず良かったです。うーーん、あともうちょっとですね。半歩前です。


●エイジさん「無声慟哭」

これ、ちょっと翻訳詩の影響が強くないですか?
これは、心の中に神がいる国の人の書き方に思います。まあ、信仰は自由なんですけどね、あんまり日本人はこういうものの言い方しないなあと思う書き方なので、ちょっと異種の感じが気になりますね。これ、日本人には入りにくいと思いますよ。それが1点。

それから、これはもしかしたら作者的には自身も含めて言ってるのかもしれないけど、読んだ感じとしては全くそう見えない。完全に他者向けに書かれてる感じにしか見えない。それも誰か特定の友人・知人のことを思って書いた、というなら、まだその人個人のことや親身の身近さが入ってくるから救いがあるのだけど、これは、不特定多数に向けた書き方にしか読めない。
まずもってスタンスとして、そういう立ち位置で書いた場合に、往々にして説教くさくなるんですよ。この詩も例外ではありません。これが2点目です。
(聖書とかの場合は、目的が違いますから、このスタンスで良いのだと思いますけどね。)

それとこの詩の書き方で行った場合に、終連がなぜ「静かに寝床についた」に着地するのか、よくわからない。力強い言葉でずっと進行していってますから、終わるならば、

 そしてあなたは立ち上がる

または

 そしてあなたは立ち上がり
 窓の外を見るのだ(外の世界を見るという意味で)

あるいは
終連まるまるカットですね。

このあたりで終わりにしないといけないと思いますが・・・。これが3点目ですね。

今回、何かに強く影響を受けられて書いているのか、何か新しい試みをされてるのかの感じなんですが、あんまり賛成できない。
日本の、現代に生きる人たちに、共感してもらえる書き方をされるのがベストに思いますよ。
基本的に、自分が含まれていない二人称主語で詩を書くのは、難しいですから、よほど技量のある人でない限り、やめた方がいいです。これやるとね、フツウ絶対、説教くさくなるのですよ。今回の詩は、全くそのとおりのパターンになりました。

終連を除くと、それなりに形にはなってるという部分で、秀作にしときます。


●成城すそさん「無限から逃げたい」

一点先にいうと、2連アタマの「その中」は、どの中なのか、そこ具体的に書いた方がいいですね。「部屋の中」とも、「自分の中」とも、(手を伸ばした)「相手の中」とも受け取れて、そこでひとつ話が曖昧になるので、具体的にどの中なのか、書いた方がいいです。

この詩、いろいろ読み方ができるんですが、
「引き上げられる」は、見放して去られるの意(したがってこの場合は、部屋に取り残されたままとなる)ではなく、空に引っ張り上げられた意で使っているようです。(ここももう少しはっきり書くか、もう1行加えて、意味を増幅させた方がいいです)

それでたぶん、空の竜宮城のようなところで、現実逃避していて、その様を「呆れた」と自己批判してる意に受け取りました(間違ってるかもしれませんが、大意を取らないと詩の全体が読めないので、いちおうその解釈でいきました)。

成城さんはわりとアイデア先行で書く人なので、初連の

 カーテンから
 太陽が手を伸ばして
 握ってくるから

からの、連想の発展かもしれません。でも今回はちゃんとストーリーになってますから、後半は主張したいところが大いにあるのでしょう。
ちなみにこの詩の最もおもしろい解釈は、太陽が、太陽ではなく、太陽のように見える人である場合です。これが人であれば、もう少しいろいろ書けそうですね。

いずれにせよ、今回はちゃんとストーリーになってるので、一歩前進ですね。初連の感じは悪くなかったので、結論を急がないで、プロセスを丁寧に。また、動作だけでなく動作に伴う心情も加えて、書いてみて下さい。秀作一歩前とします。

今頃気づいたけど、成城すそさんて、もしかしたら西条八十をもじってるのかな???


●埼玉のさっちゃんさん「先駆者」

時代が彼らを必要とする、時代が彼らを解釈する、って場合もあるんですが、そういう結果的先駆者となる人と、意図的に先駆者となる人と、両方いるような気もしますが、この詩においては後者の、フロンティア・スピリットの話かと思います。これは、いろんなジャンルにおいても必要なポリシーでしょうし、また、作者が言うように、それぞれの人生においても必要なものなのでしょう。

まずもって基本的な文章力アップを感じました。これ、結構、思考力もロジカルなところもある話なんですが、これだけ書いてもミスが出なくなりました。まずは安心して読めるセンまで来ました。
今の段階で、まずは秀作あげましょう。言いたいこと、ちゃんと書けてます。伝わります。
無論、ここが終点ではありませんけど、でも、ハードルは一つ超えた感じがする作品です。

1箇所だけありますね。
 誰のものではない → 誰のものでもない

でしょうね。


●秋さやかさん「あじさい」

私ねえ、上の娘に自転車乗る練習をさせてた時に、広いところでやってたんだけど、たまたま転んだところに石が埋まってて、それで足を大きく切って、治ったんだけど、跡が残っちゃてねえ、親としてはそのことが何十年経った今も、記憶の底の方でちくちく離れないですね。本人に聞くと全く気にしてないんですけどね。親はそういうの覚えてますね。
だから秋さんが、子どもの小さな部分を気にされる気持ちはよくわかります。

7連の

 曇った鏡に
 わたしを描いてくれている

は、そこに青あざを作ったのは自分のせいではないかと、責める気持ちが描かれているのでしょう。

赤ちゃんの時からある蒙古斑であれば、7~8歳くらいまでに消えるはずですけどね。
ちなみに、小さい時の傷や痣は、そこはそれ以上大きくならないのに対し、体はどんどん大きくなるので、体との対比として、相対的に小さいものとなっていきます。つまり2センチのものは、体が大きくなっても2センチのままなのです。だから見え方としては、どんどん小さいものになっていきます。たぶん、ノープロブレムです。
場面は、親子の入浴場面ですが、娘の背中がはっきり見えると、この青あざが娘の先々を困らせるのではないかと危惧する気持ちに傾いていきます。心配と自分を責める気持ちと、そういう親ごころが描かれています。
それにしても、蒙古斑の青に紫陽花を重ねるという、意表を突く比喩がお見事です。
そして盛夏に向かう紫陽花が、その色を失っていくように、蒙古斑も消えていくことを願っています。
紫陽花を描くに、紫陽花の花の終わりに着目してる視点て、凄いと思いますよ。
また、この内容の詩に「紫陽花」というタイトルをつけられるのが鮮やかです。凄いです。序盤からは全く想像できないタイトルでした。名作を。

1点いうと、7連、
そこ、曇った心が照らし出されてる、自分に反射されてるみたいな、ずいぶん遠回りした言い方をされてる気がするのだけど、
わたし的には「曇った顔を」鏡にうつしたいとこなんですけどね。その方がはっきりするので。現状でも不可ではありませんが。

まあ、そこも含め、この詩、中盤がもうちょっと書けると、代表作まで上がれる余地持ってますね。概要はすごくいい様相を持った詩なので。

編集・削除(編集済: 2023年07月08日 03:35)

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