ただ月満ちて 積 緋露雪
満月の今日、独りSionを聴きながら
酒焼けで嗄れに嗄れた彼のヴォーカルに
普通でゐられず世間から弾かれたものの悲哀を味はひつつ、
かぶくものの強さに思ひを馳せる。
翻って吾はといふと、
将にSionと同じやうなもの。
朔太郎、中也、ランボー、ブレイク、イェーツ、リルケなどに憧れつつも、
この思考の即物的な癖は治りさうにない。
そもそも吾には比喩力が皆無なのだ。
それでゐて、浪漫派的要素を色濃く残しながらも
独自の幻視世界を作り上げてしまったヰリアム・ブレイクには特に憧れが強い。
地平より昇りし赤い満月の不気味さに戦きながら、
科学的にいってしまへば浪漫もへったくれもないのだが、
地平近くの満月が赤いのは、
地球の大気を遠くまで通る太陽光のうち
波長の長い赤色の光線以外散乱してしまふからに過ぎぬ。
だからといって不気味といふ印象は吾からちっともなくならない。
科学的論理と吾の感覚との齟齬は今に始まったことではないが、
この齟齬を埋めるものは
今のところ吾が科学的論理よりも感覚を優先することでしかないのである。
それでは人間の進化は起きないと自嘲しながら
それでゐて、科学的論理、特に数理物理の論理に目がない吾は、
一度数理物理の本を読み出すと徹夜しても時間が足りないほど熱狂の中にゐるのである。
とはいへ、その数理物理と吾の五感との齟齬は、
どう足掻いても結びつかずに、
吾の存在にとって五感が先立つのである。
それを追って数理物理の論理がやって来るのであるが、
五感は頑なに数理物理の論理を拒否してゐて
しかし、それは生きるものにとっては当然で、
いざとなったときに数理物理の論理は大いに役立つ筈なのだが、
生き残るのに五感に信を置いてゐる馬鹿な生き物が人間なのだらう。
ただ月満ちて、吾あり。
Sionのヴォーカルが心に染みて
吾、パイプ煙草をふかすのみ。
月明かりの夜空は濃い藍色をしてゐて、
吾が心の鏡に相応しい。
夜空はやがて数珠つなぎの球体群に変化して
その球体の一つ一つが完結した宇宙を表し、
その直後に巨大に合はせられた手が現れ、
数珠つなぎの球体群は
その巨大な合わせられた手にかけられ
何処よりか般若心経が聞こえてくる。
その響きは上空に昇って行き、
さうして闇に呑み込まれた。