評、7/21~7/24、ご投稿分。 島 秀生
・ビッグモーターの街路樹枯れる問題ですが、
除草剤は、取説どおりの適量に薄めた場合、街路樹みたいな大きいものは早々枯れません。中には雑草と一緒に枯れてしまう場合もあるかもしれませんが、あんな大きいものが一律に枯れるということは、まずあり得ません。
あれは、除草剤を原液に近い状態でまいて、故意に枯らしてますね。店舗の視認性を良くして、走ってる車から、店舗全体がはっきりと見えるように、前を塞ぐ街路樹をわざと全部枯らしたのでしょう。
そしてまた全店においてそうなってるということは、上からの指示で全部やっているということです。
除草剤を使ったことのある人なら、あれは故意だと、みんな思ってますよ。ふつうに適量で使ってたら、そんなに強いものではない。街路樹なんて大きなもの、ふつうは枯れるはずないので。
・本当に災害レベルの猛暑が続いております。
皆さん、無理をせず、どうぞご無事でこの夏を乗り切って下さい。
●江里川 丘砥さん「朝顔」
いつになく丹念に描きましたね。丹念に描いたとこは良しですね。
3連はつる、4連は葉、5連は花で、6連はその3つの計となります。そこ、構成ができているので、2~3連は一つにまとめた方がいいでしょうね。(初連は前提となるグリーンカーテンなので、そこはそのままで良しです)
日を浴びて咲く
青紫の 柔らかな花
強い風のなかを
舞い踊るように揺れる
葉はひっくり返り
打ち付ける風に煽られても
飛ばされず
伸びていく
壁の上まで
伸びていく
こんな感じ。
で、丹念に書いたあと、
やっぱり終連では、朝顔だけで着地せずに、ちょっと作者と絡めたい。
朝顔の生き方に学ぶ、という感じで。
一つ前から行きます。
大切な場所から
飛んでいかないように
風に逆らわず
なびくことで
生き延びる術を身につけた
ひと夏の命
ゆらりゆらり
身をまかせる (or我が身もまかせる)
こんな感じに、少し作者と絡めて終わりましょう。
ということで2ヵ所かな、一考下さい。
秀作プラスを。
●理蝶さん「夏の路端にて」
もしわかっているなら、あまり具体的でなくてかまわないので、死因のヒントぐらい置いていってほしいとこですね。この詩を読むと「路端」がキーワードになっているんですが、とりわけ、
あの子だけが知ってる夏の路端のこの暑さ
の詩行からは、路端が暑いから、真ん中を歩いてて事故にあったのかな? みたいなことも思ってしまって、ぼやんとした疑問が、この詩の読後感に残ってしまうので、冒頭のことを思ったわけですが、
作者的にはもしかしたら、花束の位置が端っこにあることをただ言ってるだけなのかもしれないのです。もっというと、作者自身も死因は知らなくて、電信柱の花束からの連想で書かれている詩なのかもしれないのですが。
もし、死因に触れずに、この詩から感じる疑問を回避しようとするならば、少なくとも交通事故であることを確定する必要があって、それはどのような道路のどのような場所の電柱のそばにあるか、ロケーションを書くことで回避できると思います。(電柱と電線は書いてくれてるんですが、もうちょい外回りの外観からということです。)
2連2行目以降の幻想的な情感、いいですね。
それで3連、花屋に向かおうという気持ちと、行く途中の4連で、他者にあの子の姿をダブらせてしまうところも。2~4連の情感の流れはとてもいいなあと思いました。
ああ、3連の2行目と4行目は、一字下げにするか、( )で閉じるか、した方がくっきりすると思います。
終連の「花屋で涼もう」は、今の季節の実感で、いいですね。
ただ、あっさり終わったなあと思う。もうちょっとボリュームつけた方がいいですが、せめて、
花屋で涼もう
じっくり花でも選んで
あの子の好きな色はなんだっけ
あの子の好きな花はなんだっけ
みんな忘れたふりをして
こうかな?
ということで3点言いましたが、ご一考下さい。
気力が抜けて、意識も飛びそうに、ふわーっと漂い歩いてる感がいいですね。
秀作プラスあげましょう。
●freeBardさん「開幕宣言」
最初は、「貴方」が個人に見えたので、恋の開幕宣言的なものかな?と思ったのですが、その場合だったら「貴方」を「貴女」にする方が的確だし、初連終行を見ると、この舞いは大勢の前で行なわれているもののようなので、個人宛のものには見えないので、それは違うなと初見の解釈は撤回することにしました。
「舞い」は比喩的に捉えていましたが、ここは素直に、本当の舞い、ないしパフォーマンスか大勢の前でやるものに受け取った方が、初連終行の解釈が成り立ちますし、文字通り競う要素がある大会なので、「開幕宣言」であり、結果判断を「貴方に委ねる」のだ、と解釈した方が、詩に書かれているいくつかのキーワードの、共通項が立ちますので、いちおう最終的にそういう解釈で読ませてもらいました。
もし、本当に何かを愛でる気持ちや、祝って書いているなら、具象の部分と抽象の部分はメリハリをつけた方がいいですよ。
具体を書いた方が、そこまでの自身の経緯もこのためであったと、情感が生きることになります。
全部を気取った言葉で書いているので、全部が抽象や比喩的なものに見え、したがい詩全体から距離を置いて読むしかなくなってるのが、この詩の読後感ですね。
読む側として距離を置くしかなくなってしまうと、愛でる気持ちや、祝う気持ち、自身の経緯に対して思う気持ちに対しても、全部、距離を置いて眺めるしかなくなってしまうのです。
結果、感動が5分の1も伝わらない。それでいいのか?と言いたいですね。
伝えるためには、抽象・具象のメリハリも、表現の緩急も必要です。どうやったら伝わるか、ということに、もうちょっと力点を置いて考えて欲しいとこですね。
情景の枠組みは書けているので、一歩半前とします。
●エイジさん「永遠の国」
初連、すごくキレイですね。この初連はぞっこんです。
ただ、終連でそれを、一部なぞって入るのはいいけれど、まるまるなぞって、それで終わりってするのはいただけない。
部分をなぞりつつ、また別の叙景フレーズを加えて終わりにしないといけない。そこは、もう1回考えないと!
例えば、誰もいなくなったガラス窓を、別表現で美しく描写して終わるとかです。
そこがもう一押し、足らんのよなあー
ストーリーはどこか哀しみが漂いながらもロマンチックでした。ストーリーは良かったと思います。それに応じた、いいムードも漂っています。
だから方向性としてはいい作なんですよね。
それと「しじま」の使い方がちょっとヘンです。「しじま」の意は「静寂」とニアーなのですが、用法に違いがあって、「静寂」は単独でも使われますが、「しじま」はあまり単独使用されないんです。「~のしじま」とか、あるいは「の」が付かないまでも、どれの「しじま」がわかる形で使用されます。
たとえば3連なら、
夜の波ひとつない水面のしじまに
吸い寄せられるように
少年を足を差し入れた
こんな感じですね。
「その水面はしじまだった」という、「AはBだった」的な使い方はしないですね。しかも原文だとその前に足を湖に浸けてますから、2行目段階で、しじまをもう破ってますよね。出してくる順番もおかしいです。たぶん「しじま」の意を他のものと取り違えてられてるんじゃないかと思われます。
2回使用されてますが、「しじま」の使い方はどちらもアウトでしょうね。
現時点は、秀作というところですが、
以上2点、直してもらったら、これ、もっと良くなる作だと思いますよ。化けると思います。
●凰木さなさん「泥」
うむ、悪くないね。おもしろい。
ただ、森の出し方だけが気になりますね。
序盤は、「走る」「泥水」「涙」だけに集中した方が話が深まると思いますよ。
こんな感じ。
泥水の上を
君は走っている
沈んでしまわないように
下を見ないまま
足を取られないように
振り向くことなく
ただ前だけを見て
歯を食いしばり
足元で跳ねた泥で
汚れるのも気にしないで
君は走っている
涙を流しながら
溢れる涙で
泥は薄れ
足元の水が
透き通ってゆく
やがて森に入ると
小さな魚の群れや
水草や水中花
浅い川底が姿を現し
綺麗な水が君を洗う
浅瀬から岸に上がると
その先は見渡す限りの草原
この流れの方が良くないですかね? 案ですが。
序盤、せっかく登場人物の必死さがあるので、画面上も、いろいろ出さないで、少ないアイテムで集中した方がいい気がしました。
あと、終連終行、
草原に風の音を残して
で終わってて、「音」感が大事にされてるんですが、
その伏線として書いている、
風が優しく吹き
颯爽と音を響かせる
の連の「音」感が、どうもはっきりしないし、「優しく吹き」と「颯爽」も、風の強さが違うものの感じがする。
今の状態だと、むしろ足を引っ張ってる気がするので、この連は削除で(削除しても、次の連で話は繋がります)、「音」は終連だけに委ねた方がいい気がします。終連だけで、読者の想像に「音」を任せてもいい。
あるいは風は、草原に「流れる」だけでいいのかもしれませんよ。「風の音」というと、どうしても強めの風を思ってしまうので。
ということで、以上2点につき、ご自分で一考してみて下さい。(私への回答は不要です)
一考を条件の、秀作としましょう。
粘り強く、よく書けました。この調子で。
前回ちょっと気になった「作者の位置(視座のことです。その詩において、どういうサイドから作者は見てるのかってことです。私らはつい、フツーに使ってしまうんですが、もしかしたら詩の専門用語かもしれませんね。詩の鑑賞においては必須のものの1つです)」についても今回、一歩客観に置いたナレーション的な立場で「君」を追う視点は一貫していて、ブレは感じなかったのでOKです。
●水野 耕助さん「沈んでいく」
ちょっと解釈がいくつか複数できる詩に思うのですが、
まずもって「自分の中に沈んでいけ」の言葉を、能動的・積極的(意義があり、マジメにそんなに悪いものではないと考えている)と受け取るか、
どうしようもなく沈んでいってしまう自分に対して、それを止めようと抵抗すること自体をやめ、身を任せている感じの意か。
この終連をもってしても、二通りの受け取り方がありますね。
ただ前者のような自己追求型だと、「誰の声ももう届かない」というような他者の眼意識は不要なものなので、前者ではなく後者と受け取るのが順当かもしれません。
あんまりいい精神状態じゃない感じの詩にも読めますね。
よく自分の内面は深海や海底に例えられます。そのように考えると絵に描きようがあるのですが、「すべてがある」という言い方を短絡的にいきなりしてしまうと、それ以上、描きようがなくなってしまうし、
もっと言うと、わかろうとする方もいきなり「すべてがある」と言われてしまうと、白壁を押しつけられたのと同じで、わかるための術や取っ掛かりが一切なくなってしまうので、入りようがなく、入る気もなくなってしまいます。
それ言うと、表現上もストップするし、内容の方向性においても読者的にもストップするので、のっけから使う言葉ではないですね。
いろんな方向から個々に調べて述べた上で、もし「すべてがある」と言えるものでならば、最後に「すべてがある」と言うべき、と考えます。
そのへんが、この詩が広がらない由縁ですね。思考って、思考のプロセス部分を書き留めることも大事なんですよ。
半歩前とします。
●じじいじじいさん「あおとあおとひかり」
方向性はいいし、アイデアもいい詩だと思います。
でも、そこだけで終わっちゃいましたね。
話に発展性がない。それに尽きます。
しかも、この短い作の中で、
あおとあおとひかりに
みんなはつつまれていきているから
と
あおとあおとひかりのおかげで
みんながいきているんだから
も、ほぼ同じだし。
ほぼほぼ最初で立ち止まったまま状態の、作に見えます。
一案ですが、
「みんな」という言い方は、案外と漠然とした言い方になるので、終始「みんな」で書くところから間違ってるんじゃないですかね? 「みんな」は最後だけにして、「ぼくたち」から初めてはどうですか? 「ぼくたち」で始めれば、ぼくたちの具体的なこと、日常的な場面も、自ずと、あいだに入ってきて、話が展開することと思いますよ。
方向性としてはいい作なので、安易に終わりにしないで、じっくりと作を温められてはいかが?と思いますよ。かなりもったいないことしてます。
これは制作途上のものに見えるので、評価は保留にします。
●小林大鬼さん「炎天」
想いの方向自体はいいのですけど、まだちょっと、部分だけを合致させて済ませようとする、無責任なとこがあるんですよね。
本当に考えてるんなら、もうちょっと書くことがあるでしょう、と言いたい。
具体的にいうと、あと2連~3連は入らないといけない詩だと思いますよ。なにが足りないのかは、自分で考えてみて下さい。
小林さんの詩は、いつもこういうふうに、部分だけ合致させて済ませて、深く入らないんですよね。そこのところは直ってないと思いますよ。
悪い言い方をすると、「ちょっと触れて終わり」「匂わせて終わり」の詩が多いんです。
たぶん即興モノでしたら、こんなふうにサッと触れるだけでマルになるんでしょうけどね。印刷物にして読んでもらうつもりがある詩であれば、テーマがなんであるにせよ、もう一歩踏み込んだとこまで書かないとダメです。この点については、もう口がすっぱくなるほど言ってますが、一向に直す気がないように見えます。早くそこから脱してほしいと思うけど。
(小林さんの暖簾に腕押し感は、これに限らずもう何年間もずっとですからねー。私、初期にそもそも即興でここに書きに来るのはダメだ。過去にも即興で書きに来てた人は何人かいたけど、誰一人として、前に進んだ人はいないからやめなさいと、絶対3回以上は注意したと思うんだけど、一向に聞かなかったから、案の定な、歩みなわけです。即興で書きに来てた間は、あまり前に進んでない。ゼロとは言わないけど、遅々としたものです。
自作の控えを取ってないから、評をもらっても照合できないし、しない。だから前に進むわけがないのです。小林さんが延々遠回りしてる理由は、かなりはっきりとしてます。)
この詩に関しては、きちんと推敲されてるようで、概略悪くない詩なんですけど、というか外枠のとこではできてるんですけど、一歩踏み込むとこが依然として直ってないんで、半歩前とします。
小林さんは、今ここに来てる中で一番のベテランさんですからねー。ちょっとキビシメに行かせて頂きます。
●上田一眞さん「秋津の使者」
見た目の群青色感と言われて、最初に思いつくのはオオムラサキ(日本の国蝶)でした。他の蝶のような、ひらひらした飛び方をあまりせず、飛翔速度が速いところも、この詩で描かれたものに似ています。
というわけで、私の印象はまあオオムラサキでしたが、それと特定せずに「蝶蜻蛉」と表現されたのは、それはそれで得体の知れない不思議さがあって、古から飛んで来たものとの想像を巡らせるにふさわしく、グッドだと思います。
概ねいいんですがね、2点引っ掛かることがあって、
「秋津の国」という言葉と、「時空を飛び越えて」の言葉がセットになって、タイムワープを思わせますが、秋津洲という言い方は神武天皇が始まりで、古といっても、そういう紀元前の古を想起させるものですので、終連終行の「みやびな色」(平安時代を思わせる)と合わないのです。
なので、終連終行の「みやび」は別の言い方を使うか、せめて「みやびな群青の移ろいに」と、後ろに来る色を固定するか、した方がいいです。「みやびな色」のまま放置しない方がいいです。
もう一点は、「ひらひら ひらひら ひらひら」です。イメージを取る分には、むしろフツウの蝶のような羽ばたきで「ひらひら ひらひら ひらひら」の、今のままの方がイメージが取りやすいくらいなのですけれどね。
どっこい3連で「蝶蜻蛉」の由来となる、飛び方と速さのことが書いてあるでしょ? ここと矛盾するのです。
3連に沿うならば、スピード感つけて「ひらひらひらひら」くらいの方が、いいでしょうね。
気になったのは以上2点です。ご自身で一考してみて下さい。
上田一眞さんは、私は初めてですので、今回感想のみとなりますが、とてもおもしろい作でしたよ。
●妻咲邦香さん「意味の海」
実力があるのはわかってるんだけど、なかなかジャストミートしない人よなあーと思ってたんですが、
これは珍しくジャストミートしましたね。名作あげましょう。良かったです。
「一番遠くまで行けそうな気がしたから」は、いい言葉ですね。選択理由として、これ以上の言葉はないかもしれん。
「一面は意味の海」は、詩や文学を示唆する、ここの脈絡からは話はずれのですが、情報過多の今の時代を指す言葉でもあるな、と思いました。
さっきまで拗ねていた子供が
突然いい子になってお菓子をねだるように
この比喩、いいですね。この比喩もぞっこんです。ここもジャストミートです。
その連の最後の、「かくれんぼの鬼になるしかない」、の覚悟は、これも詩や文学に限らず、今の時代を生き抜くのに必要なのは、このような意志かもしれないと思われ、深く感じ取りました。
終盤で「人」を出すのは、ちょっとテクっぽい気もしたんですが、そこまでの話を抽象に浮遊させないためにも、ここで「人」を出してきて、「人」に定着させるのは正解だと思いました。
もしかしたら、裏に、作者の別の意味が隠れてるのかもしれませんが、私は今回、気持ち良く読めたので、というか読者サイド的にはこれ、素直に深く読める作だし、一部特定の人間に限らない、現代人への共通項がある。
いい詩だと思います。代表作のラインナップに入れてもいい作だと思いますよ。