闇の中で 紫陽花
私のおじいちゃんは船乗りだった
世界中を巡るそんな船乗りだった
おじいちゃんの海の話は
霧から始まることが多かった
狒狒の島の話も
ちょうど濃い霧が
立ち込める場面から始まる
太平洋のど真ん中の日没
船は進んでいる
日本では秋風が吹くころ
海の上ではいつもの
海風が吹いている
街の明かりもないので
前後左右真っ暗だ
時間の経過も分からなくなる
そのうち少し眠気が襲ってくる
狒狒はその時を狙っている
漁師が投網を投げるように
白い柔らかい
オーガンジーのような
霧を狒狒は被せてくるのだ
船は捕らえられたように
霧の奥へ奥へ真っすぐ
迷いなく進んでいく
砂地に乗り上げたような
何かに船首を掴まれたような
そんな感覚の後 船は止まる
おじいちゃんは
誘われるように外に出る
船から降りて
陸のようなところに降り立つ
何しろ白い霧で何も見えない
けれどここが島なんだと感じる
霧の奥から音もなく誰かが来る
赤い服を着た女性だ
遠くからでも人ではないと感じる
女性はにこやかに近づいてきて
話しかけてくる
奥に食べ物があるから
一緒に食べましょう
この世のものとは思えない
綺麗な姿と声に比例するように
おじいちゃんの恐怖が最大になる
その時おじいちゃんには
霧と闇の境目にある船が見えた
おじいちゃんは
恐怖で動かない体を
必死に動かし闇に向かって走る
狒狒は追ってくる
近くにあったはずの
降りた船が遠い
女性は今や狒々の姿で
追いかけてくる
お腹を空かせた狒々は
特に男性が好物だという
狒々に追いつかれる瞬間
おじいちゃんはなんとか
船に戻れたそうだ
私も暗闇の中にいると
方向性を見失う
何か強いものに
取り込まれてしまいそうな
そんな時がある
それがいいものか
悪いものか判別もできず
私は暗闇の中
私をしっかりと信じることが
できるだろうか
狒々に食われてしまわないだろうか
そんなことが心配になる
夜が長い季節がやってきている