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スレッドNo.2819

感想と評 9/19~21ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。9/19~21ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●妻咲邦香さん「私とマドリ」
妻咲さん、こんにちは。最初にタイトルを拝見したとき「マドリって何?」と思いましたが、雨宿りの別名だったのですね。雨宿りを擬人化してニックネームまでつけてしまうという奇抜な発想は妻咲さんならではと思います。

さて、この作品では「雨」は世界の不条理あるいは厳しい現実を象徴しているように思います。「世界に雨が降る」というフレーズを読んだとき、私は映画「ブレードランナー」の冒頭シーンを思い浮かべました。

けれども、そんな世界にも雨を避けることのできるちょっとした空間があり、そこに人々がやってきては一息つき、また出ていく。雨宿り(マドリ)とは、そういった安らぎや休息を与える何らかの存在を意味しているのかもしれません。雨宿りの場所でたまたま居合わせた人々は互いに見知らぬ他人同士のまま別れていきます。でもマドリ(あるいはそれぞれの人にとっての雨宿りの別名)には会える。

後半ではそれらのイメージに変化が出てきます。雨に濡れて風邪をひく「私」の中に、じつはマドリがいることが分かる。だとすると、「雨」もまた、マドリをもたらすものとして肯定的な意味を持ち始めるのかもしれません。

2連の「だから世界に雨がふる」と終連の「それでも世界に雨は降る」の間にはこのような「私」の価値転換が起こっているように思いました。そしてそこから「それでも世界は美しい」という結論に繋がっていくのでしょう。(ちなみに個人的には最終行の「と言いたい」はなくてもいいかなと思いました。)

今回も味わい深い詩をありがとうございます。評価は「佳作」です。


●喜太郎さん「男の子」
喜太郎さん、こんにちは。これは小学生男子の初恋の詩と受け止めました。気になる女の子がいて、なんとか気を引こうとするのですが、ストレートに気持ちを伝えることができず、ついつい意地悪をしてしまう。やってしまった後で後悔するのですが、素直に謝ることもできず、またしても意地悪をしてしまう・・・。そんな複雑な語り手の心情がうまく表現されていますね。ラストの青空の描写も効果的です。

細かい点をコメントしますと、詩中に出てくる「友達」はおそらく「女の子」と一緒に歩いている彼女の友達(同じく女子?)だと思いますが、語り手と「女の子」と「友達」、この三者の関係性が飲み込めるまでに何度か読み返さなければなりませんでした。一案として5行目は「そのそばで友達が怒ってる」のように説明を加えるといいかもしれません。

また12行目は時間的順序からすると「おかわりも出来なかった晩御飯 眠れない夜」の方がいいでしょうね。

この詩が喜太郎さんの実体験に基づくものかどうかは分かりませんが、広く共感を呼ぶいい詩だと思います。評価は「佳作」です。


●えんじぇるさん「共産主義革命のうた」
えんじぇるさん、こんにちは。この作品は今の世相を皮肉っている社会風刺の詩と受け止めました。今の世の中は、才能を開花させて活躍する人がもてはやされ、一般の人々もSNSなどを通していかに自分の生活が充実しているかを誇示しあっているように思います。その一方で他者に迷惑をかけることが極端にタブー視されている。こういう息苦しい社会で生きることを諦めて、自分の殻に閉じこもる人々もいます。そういったパフォーマンスとプロモーションを至上価値とする資本主義社会へのアンチテーゼとして「共産主義革命」というタイトルを持ってこられたのかなと思いました。したがって、作者は本気で革命を目指しているというよりは、一種のブラックユーモアとしてこのタイトルをつけたように感じました。

ただ、現状ではタイトルと本文の内容の間にはなお開きがあるように思います。もう少し「革命」に関連した内容を追加していただくか、それとも別のタイトルを考えるかしていただくのが良いと思います。評価は「佳作一歩前」です。


●村嵜千草さん「ため息」
村嵜さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。

ため息や舌打ちといった非言語的な動作が、言葉よりも多くのメッセージを伝達するということはありますね。この詩のため息の主体が誰なのか、「僕」とどのような関係にあるのかは定かではありませんが、「僕までの専用道路」を持っていることからすると、たまたま公共の場で居合わせた赤の他人ではなく、恋人、家族、職場の同僚といった、ある程度近い関係の人間と思われます。

私は恋人として読みましたが、会話の最中にふと相手がもらすため息、それが「僕」の心に突き刺さっているようです。その真意も分かりかねるし、言い返すこともできないもどかしさがうまく描かれていると思います。

現状、二人の関係はあまりうまくいっているとは見えませんが、「僕」がため息の意味を読み取りたいと願っている、その点に希望が垣間見えるような気がしました。またのご投稿をお待ちしています。


●紫陽花さん「不在」
紫陽花さん、こんにちは。この詩はなんと言っても最終連がいいですね。

目を背ければ
何かはいなくなって
目を向ければ
何かはいる
そんな自然の流れの中
私も時々不在になる

この結論に向かって「存在/不在」のテーマが繰り返されていきます。太陽、鼠ときて、3連からの「父」と「私」の話が、この詩のメインパートでしょう。ホップ・ステップ・ジャンプという流れも良いです。

昨年亡くなって「不在」になったはずの「父」のカメラが出てくる。そこには様々なものが記録されているが、そこにいるはずの「私」だけがいない。そしてそのような「私」の「不在」を通してかえって「父」の存在が浮き彫りになってくるように思います。

終連ではこれらすべてが「自然の流れ」と表現されているのが、語り手の達観や諦念を表しているようで、深く心に残ります。

この作品、ものすごく好きなのですが、一箇所だけひっかかったところがあります。3連で「父」の一眼レフの中に彼の「ここ30年ほど」(の写真)が詰め込まれていた、とありますが、これはどういう意味でしょうか? 昔ながらのフィルム式カメラだとすぐにその場で内容を確認することはできませんし、30年分の写真が一本のフィルムに収まっているとも思えません。かといってデジタル一眼レフが発売されたのは1999年のようですので、デジタルカメラだと年代が合わなくなります。詩の文脈では「父」が遺した写真を見るということがポイントだと思いますので、一眼レフの代わりに(あるいはそれに加えて)アルバムを見つけた、のようにしてはいかがでしょうか。あるいは、この部分が紫陽花さんの実体験に基づいているのでしたら、この疑問に答えるように表現を工夫していただけたらと思います。

そこだけご一考いただきたいということで、評価は「甘め佳作」とさせていただきます。


●積 緋露雪さん「雨の晩夏」  
積さん、こんにちは。秋風に哀愁や孤独を感じるというのはよくある主題ですが、秋風と抱擁し合うというのは面白いアイデアですね。風に抱きつかれたと感じてとっさに抱擁を返そうとしても、所詮風のこと、するりと腕を逃れて行ってしまう、その虚しさとやるせない怒りがよく表されています。

2点あります。まず初連で「異様に暑い酷暑」「後退りしたかのやうに後退する」「秋を連れてくる秋雨前線」と重複表現が出てきます。3つも繰り返されていることから、これは意図的なものと思われますが、具体的に何を伝えようとしているのか、私には伝わってきませんでしたし、さほど効果的にも思えませんでしたので、ここはシンプルな表現に変えたほうがいいかと思います。

もう一つは、「雨の晩夏」というタイトルが、本文の内容と合っていないように思いました。秋風との抱擁という、作者の一番言いたい主題とつながるようなタイトルを考えていただければ、より統一感が出てくると思います。

以上、ご一考ください。評価は「佳作一歩前」です。



以上6篇でした。今回も読み応えのある詩との出会いを感謝します。
今年もあと3ヶ月になりましたね。秋の夜長に詩作に励む方々も多いと思いますが、今後ともよろしくお願いいたします。

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