脳の肉眼 積 緋露雪
京都大学数理研教授の数学者、望月新一氏の論文
「宇宙際タイヒミューラー理論」は
長年、数学の難問と知られてゐたABC予想を証明したとして
世界中の数学者はもちろん、数学好きの人人をも巻き込んで
蜂の巣を突いたやうに大騒ぎとなったが、
それも最初のうちで、
論文としては余りにも長大な500頁を超える量に加へて
準備段階としてその倍以上の論文を読まなければ
「宇宙際タイヒミューラー理論」は理解すら出来ないことに
二の足を踏む数学者が続出し、
また、準備が出来て望月新一氏の論文を読んでも
何が書いてあるのか全く理解できないといふ数学者が続出したために
今では、「宇宙際タイヒミューラー理論」の話を
数学者でさへも煙たがる有様なのであるが、
その望月新一氏が面白いことを言ってゐて
――「脳の肉眼」でも直感的に捉へやすく組み立て直す――
と、脳の肉眼といふ言葉で内省の目を表現してゐるのである。
脳の肉眼は深海の底から宇宙の果てまで自在に観察出来るのであるが、
その何ものをも見えてしまふ脳の肉眼で捉へるには、
まづ、思考実験が思ひ浮かぶが、
数学は抽象度がとても高く
数学的な思考実験に慣れるまでには、
少なからず修行が必要なのである。
その修行を積んだ数学者すら
「宇宙際タイヒミューラー理論」に書かれてあることを
脳の肉眼で捉へることが出来ないのである。
しかし、数学の素人ではあるが、私の脳の肉眼には
「宇宙際タイヒミューラー理論」はとても面白いものとして見えるのである。
それは到頭数学も宇宙際へと踏み出したか、と感慨一入(ひとしお)なのだ。
際とは国際の際と同じ意味で簡単に言へば「間」といふことを意味してゐる。
つまり、宇宙際とは宇宙が一つではなく二つの宇宙を想定してゐる点である。
これは物理的なMultiverseを指してゐるものではないのであるが、
物理学は特に現代物理学では数学により進化が引っ張られることが多多あるので、
「宇宙際タイヒミューラー理論」の理解が深まれば、
当然、物理学にも影響するに違ひないのである。
私なりに理解した「宇宙際タイヒミューラー理論」を素描すると
一つの宇宙は吾吾が慣れ親しんでゐる数学が成り立つ宇宙、
もう一つは一つ目の宇宙と数学的な関係があるけれども
そこで成り立つ数学は
吾吾が慣れ親しんでゐる数学とは違ふ数学が成り立つ宇宙といふことである。
さうすることで、望月新一氏は足し算とかけ算を分離することに成功したのである。
ABC予想においてかけ算は簡単で、足し算は難解極まりないために
これまで数学の難問として誰もそれを証明出来なかったのであるが、
また、吾吾の世界ではかけ算と足し算は固く結びついてゐて
それを分離するのは不可能に思へるが
望月新一氏はそれを分離することに成功したと言へるのである。
ここまでくれば、ABC予想の証明の峠を超えたも同然で、
後は詰め将棋のやうに理路整然と証明を進めるだけである。
こんな面白い論文が数学者でもお手上げといふのが残念でならないが、
若い数学者の間では、望月論文が刺激となって
これまで、数学は違ふものに同じものを見つけるのが主であったが、
違ふものは違ふものとして扱ふ
新しい数学を構築するのに躍起となってゐるらしいのである。
望月新一氏がいふ脳の肉眼で数学を捉へ直す動きが始まってゐるのである。
翻って己のことに鑑みれば、
埴谷雄高の「虚体論」を覆す「杳体論」へと辿り着いたのである。
今のところ、杳体論の賛同者は僅少であるが、
私はそれでいいと思ってゐる。
杳体論は煎じ詰めれば、プラトンのイデアと通じるところがあり、
それはカントの物自体にも通ずるのであるが、
つまり、存在はこれまでの哲学者が論じたいづれにもよらぬ杳体によりのみ
その存在が保証されるといふものである。
文学は、哲学、宗教、日常、物理数理、などあらゆるものを扱はなければならぬと、
埴谷雄高は述べたが、
その系譜に現在の文学があるのかと問へば、
――否!
としか言へないもどかしい状況にあると断言せざるを得ぬのである。