MENU
941,286

スレッドNo.3090

法廷・暗きもの  上田一眞

噴き出る汗を拭いながら
被告用に設けられた席を立ち上がって
法廷を見廻した
真夏の横浜地裁
そこは暗くて重い空気が支配していた

黒い法服の判事が三人登壇
ざわついていた法廷が
その瞬間静まった
裁判長 右陪席 左陪席と順に着座
裁判長は女性判事だ

午前十時 開廷 
さっそく口頭弁論が始まった

原告代理人の若い弁護士が
気力充溢
こぶしを振り上げ
準備書面(弁論を準備する書面)を
朗々と読み上げた

一時間が経過
口頭弁論も佳境を迎え
準備書面の読み手も三人目に
引き継がれた

悪辣な被告たちだと
心に刻みたいのであろう
原告代理人筆頭格の弁護士が
書面を床に置き
被告側を睨め回し
鬼の視線を浴びせて来た

殺気に近いものを感じ
思わず視線を外らして 身を竦めた

彼は
法曹界では名うての社会派弁護士
“人を救う”という使命と矜持をもって
裁判に臨んでいた
表情からもそれが強く窺えた
この裁判に命を賭していると聞く

私は
社命で法廷に赴いた
会社を守るというモチベーションは
勿論あるが
原告を嫌っていたわけではない
社会正義の旗を高く掲げた
この弁護士にも
共感できるところがあった

自分だって
人の世の喜びから見離された
被害者に寄り添って
救いの風を送りたい
会社にも
同じ病で倒れた者が数多いたのだ

一方 会社は共同不法行為などという
不名誉な濡れ衣を着せられていた
不当な理由での訴訟提起は
断固排除しなければならない
なぜなら
企業はステークホールダーからの〈信用〉で
成り立っているからだ
放置すればその〈信用〉を失ってしまう

被害者を救いたいという気持ち
会社を守らねばならないという立場
その間に挟まって私は呻吟した

 **

 春先に訴状が届いてから今日までの間 
 率先して法務という茨の道に分け入り
 血まみれになりながらも東奔西走した

 まったく寝耳に水の訴訟だった
 会社が公害型集団訴訟の対象とされたのだ
 訴因は共同不法行為*
 客観的関連共同性*が重要な争点だ

 被告は 国とメーカー四十四社
 顧問弁護士や 相被告たちと
 慎重に検討を加えて行った

 法学者で不法行為論の碩学
 産業医で疫学の泰斗から意見を聞いた
 そして
 共同不法行為の解説書を貪り読んだ
 一冊二冊ではない
 神保町の書肆を歩き廻って本を入手した
 国会図書館にもお世話になった
 
 しかしながら法律と医学
 いずれも高度な専門性があって
 付け焼刃の素人に刃が立たなかった

 訴状に対する答弁書を
 弁護士たちと書きあげて行く中で
 上げ底の知識
 己の力量不足を露呈してしまった
 不甲斐ない心に
 青い慚愧の炎(ほむら)が灯った
 
 **

審理も終盤
原告の主張が心に滲み入って
思わず天井を見上げた
もう一人の自分が叫ぶ

  頑張れ 一眞
  気合いを入れて心を奮い立たせろ
  お前の肩に
  会社の命運がかかっている
  お前は役員
  会社の経営者なんだ

会社が他の悪ものと共謀結託して
不法行為を行なった
遵法の姿勢が欠如しているという
理不尽な原告の主張

現実に健康を損ね
ひたすら痛みに耐え
死の影に怯える多数の被害者がいる
悲惨な原告の現実

二つの事実の狭間で
私は又割き状態になった
法廷・この暗きもの
わが心をどこへ連れて行くのか…

その日の審理を終え
横浜地裁の正門を出ると
かまびすしく啼く蝉の声がした
柳の木の根本で
カミキリムシがギーと啼いた

無色の時間を彩った虫の音(ね)に
なぜかホッとした
救われた気がした
驚くことに
心の中の暗きものが霧消して行った

幼き日の自然一体の感覚が蘇り
故郷の蒼い空に思いが飛んだ
立ち止まり
ふと見上げた太陽がやけに眩しかった
迂闊にも私は涙ぐんだ




 *共同不法行為論には謀議などの主観的
 なものの他客観的関連共同性というもっ
 と緩やかな共同性を不法行為に見做そう
 という考え方がある

編集・削除(未編集)

ロケットBBS

Page Top