晩夏の蛍火 上田一眞
甘い水に誘われて
蛍来る
小さな古池が中庭にある
五日前 突然身罷ったわが母
その衝撃に打ちひしがれ
ただ日々を送るだけの脱け殻
泣き疲れ
ひとり母の箪笥の前で伏しているとき
みなもを照らす淡い光を見る
あっ 迷い蛍
昇天した地 橘坂*から飛んで来て
闇の中を彷徨う
母の化身か
幻か
悲しげに
切なげに
悲しげに
切なげに
こころの内にある
追懐の情にいざなわれ
仕舞う者をなくした
蚊帳の中に入る
蛍
思わずわが手を差し出し
そっと囲おうとしてみるが
あまりに弱い光だから
涙の波間に溺れてしまう
母の着た 《死》の着ぐるみを
誰か脱がせてくれないか
わがこころの悲嘆を光に溶かし
蛍よ 阿弥陀仏の元へ届けて
と冀(こいねが)う
《朝(あした)には紅顔ありて
夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり**》
ああ この無常
美しい月の夜に蛍火が灯る
それは寂寞(じゃくまく)とした
晩夏の夜の光
もうじき秋がやって来る
母なき季節が訪れる
*橘坂 防府市富海 旧山陽道の景勝地
**浄土真宗「御文書」より抜粋