見ないで信じる人こそ... 静間安夫
「まったく、やってられないったらありゃしねえ!おい、おやじさん、なんでもいいからこの店で一番強い酒、持ってきてくれ!」
「なんだい、お前さん、いきなり店に入ってくるなり穏やかじゃないね…。まぁ、座ってちょっと落ち着きな。いったい何があったんだい?」
「何があったなんてもんじゃない。ナザレのイエス様のことさ。あんたも噂くらい聞いたことがあるだろう?何を隠そう、あの方は俺の師匠だったんだ」
「そうなのかい。もちろん、イエス様のことはよーく知っているとも。なんでも十字架に架けられてしまったそうじゃないか」
「そうとも、そのイエス様のことだ。さっきエルサレムからやって来た行商人が言うには、イエス様が十字架に架けられた後、復活なさったというじゃないか。それも大勢の弟子たちの前に現れていろいろと話したり食事までなさったそうだ」
「師匠が復活なさったんなら、めでたいことじゃないか。いったいなんでまた、お前さん、そんなに腹を立てているんだい?ほい、この店で一番とびっきりのワインを持ってきてやったから、まぁ一杯やって気を落ち着けな」
「こいつはありがてえ、それじゃ一杯やらせてもらうよ。ふ――、おかげでだいぶ落ち着いた。いや、何のことはない、俺がちっとばかり自分を買いかぶっていたってことさ。そりゃ俺だってイエス様の弟子のはしくれには違いない。だが、しょせんはしがない税金集め、世間様から見りゃあ嫌われ者もいいところさ。そんな俺をイエス様は拾ってくれた。それも、ここみたいな汚い酒場でワル仲間と博打を打ってる最中に突然声をかけて『ついて来なさい』と言ってくれた。初めて師匠を見た瞬間、とてもこの世の人とは思えない尊いお姿にすっかり心を奪われて、気がついたときには俺は何もかも放り出し、師匠の後にくっついて歩き出していた。それから先、イエス様はあちこちの町や村でいろいろなことを教えて廻られたが、正直、俺の頭では何を言っているのかさっぱりわからない。それでもお側を離れなかったのは、イエス様が俺を一人の人間として扱って下さったからさ。そんなことは生まれて初めてだ。俺だけじゃない。師匠は相手が誰にせよ人を決して分け隔てしない」
「なるほど。『ここみたいな汚い』は余計だが、お前さん、よっぽど師匠に惚れ込んでいたんだな。それじゃあ、イエス様が十字架に架けられて、さぞつらかったろうよ」
「そうとも。ゴルゴタの丘の出来事の後、俺はイエス様との思い出に満ちたエルサレムにいるのが苦しくて、逃げるようにしてこの街まで辿り着いたのさ。ところがだ。イエス様は蘇って弟子たちの前に現れた、というじゃないか。それなのに、なぜ俺のところには会いに来てくれないんだ?何よりそれが一番つらい。やっぱり、俺が他の連中みたいに賢くもなく飲み込みの悪い不肖の弟子だからだろうか。しがない徴税人だからだろうか。結局最後の最後でハシゴを外された気分だ。そう思うと矢も盾もたまらず呑みたくなって、いきあたりばったりに飛び込んだのが、この店だったってわけさ」
「お前さんの言いたいことはわかる。だがな」
「『だがな』もヘチマもない。だいいち、その行商人の話によればだ、弟子の一人で俺もよく知ってるトマスは、イエス様が復活した、という噂を聞いて何て言ったと思う?『あの方に会って処刑されたときの傷口に手を触れるまでその噂を信じない』だって!そんな失礼なことを言ったやつのところにも師匠は現れたのに、何だって俺のところには…。いや、俺は噂を確かめたいわけじゃない。ただ、もういっぺん師匠に会いたい。それだけさ。あぁ、あんたには絶対にわからないだろうな。あれは会った人にしかわからない。あのお姿を拝見しているだけで、透き通った光と清々しい湧き水でこっちの心が洗われているような気がするんだ」
「言いたいことはよくわかる。だがな、噂を確かめなければ信じないような、そういう頭でっかちの弟子とは違って、お前さんみたいに、理屈じゃなくて『こころ』で信じる人間のところには、わざわざ行かなくても大丈夫、と師匠は安心しているんだよ。見ないで信じる人こそ幸せだとは思わんかい?」
「うまく言いくるめられたような気がするな…。まぁ慰めてくれてありがとさんよ。それにしても、おやじさん、さっきから思ってたんだけど、面影がなんとなくイエス様に似ているような…無精ひげが邪魔してよくわからないんだが。あれ、何で急に店の奥に引っ込んじまったんだい?いや、おやじさん待ってよ!まさか、ひょっとして???
三浦志郎様
本年は拙作をお読み下さり誠に有難うございます。
どうか良いお年をお迎えください。静間安夫