雨音様 えんじぇる
迫害された縄文人は、共同体があったということが羨ましくて。
障害者の共同体は、弱者といえば弱者なのですが、マイノリズムの中でも、マジョリティが勝っていくのです。
米国へ行くと、日本型の民主主義に馴染めない人たちに会える気がします。
マイノリティ優先の民主主義だと、新しい発想が生まれやすい。日本はマジョリティ優位の民主主義ですよね。
米国だとマイノリティ意見を、社会に上手く組み込むシステムが民主主義の中に組み込まれていると思うのです。
障害者のマイノリズムが、その独創性になく、仕事が出来なかった、学校に馴染めなかっただけだと、僕の仲間と認めることはとても難しく、馴染めないのです。そもそも多くの障害者は自己主張しないのです。馴染めなかったのは何故かと聞くと、分からないみたいなことを言われてしまう。
ある女性の障害者と散歩していたら、同級生が話しかけると、彼女は知らないという。いじめられていたなら向こうから話しかけないと思うのですが、その相手に対しそっぽを向くということは、本人に原因があったと思えてしまうのです。
今は福祉の人に悩みを聞いて貰っています。
詩について、同じ障害者を仲間と認めていた自分に関し、誤りだった気がしています。
障害者年金を丸々貰って、自分のお金で稼いだ金でないお金で割と好きなことをやっているはずなのに、親に甘やかされている自覚がない。
親以上に自分の欲望を叶える相手がいなければ独り立ちできない。それは僕とは違う。
私の親は私の障害者年金から5万五千円家賃として入れることを要求し、独り立ちできない人間として当然だという。
そtれは社会常識としては、分からなくもないですが、障害者年金という国が決めたシステムを否定しているように思うのです。
それで僕は毒親と言うのですが、意外と昔の価値観で言うと普通かもしれないのです。