うつからの帰還 上田一眞
1.糾える縄
運命を司る神は不機嫌極まりない
「禍福は糾える縄の如し」と言うが
禍々しいことばかり
連綿と続く〈禍〉から〈禍〉への連鎖
〈福〉はいずこにあるのか
2.経営悪化
会社は
ライフサイクルの終焉にある製品を抱え
代替品の開発を試みるが
ことごとく失敗
主力製品は
種々の理由から生産性が低下し
不良品の山を築いた
また もともと商品力が脆弱であったため
市場に浸透出来ず
販売不振に喘いでいた
付加価値生産性を高めることなく
のうのうと
現状にあぐらをかいて来た
歴代経営陣の無策無能が招いた所産だ
剰余金を食いつぶし
増資も期待できず
債務超過に転落
バランスシートは歪な形に堕してしまった
当然のことながら
新たな銀行融資など期待できない状況となり
キャッシュの源泉は
減価償却費に限られる始末
資金繰りに困じて
私は目の下のくまがとれなくなった
3.公私挟撃
年末 仕事納めの日
一通のメールが
私のイントラネット端末に舞い込んだ
内部告発だ
告発文を精査すると
品質に係わる重大事項が絡んでいた
これは危険だ
扱いを少しでも誤ると会社がふっ飛ぶぞ
そう直感し
ひとり善後策を練った
匿名のメールだったが
告発者の名を特定し
直ちに連絡をとったが会うことが適わず
新年を迎えた
お屠蘇気分にはほど遠い正月となった
本件を調べて行くうちに
組織から弾き出された男の不満が
背景にあると知った
深い遺恨がことを複雑にし
解決を難しくしていた
そして
問題が社外に流出
ある勢力に利用されかねない状況だった
まったく度しがたい愚行だ
内部告発の件で頭を転がしていた頃
郷里の土地管理を託していた者から
農地の利水問題で連絡が入った
聞くとその者が
わが家ののれんを勝手に使い
放恣なる振る舞いをするに至って
郷里の人たちの
顰蹙を買ってしまったようなのだ
私に助勢を求めて来たのだが
身勝手で責任転嫁も甚だしく
お粗末で話しにならない
だが その人物とは縁戚でもあり
やむを得ず
解決策を模索することを応諾した
ただ 郷里とは少し離れた所に住んでおり
時間的にも自由にならない身であるので
隔靴掻痒
相手との意思疎通が図り辛かった
公と私 双方での揉めごとに
挟撃され
私は疲れ果ててしまった
4.幻覚・幻視
微睡んでは一時間ごとに覚醒める
疲れているのに眠りが浅い
うつらうつらしているとき
墓石のような顔をした〈あいつ〉が現れた
見覚えのある風貌
そりゃそうだ 〈あいつ〉こそ
病んだおのれ自身の姿なのだから
激しい落ち込み
震える心
次第に
意欲という意欲を失って行った
希望という言葉を失くした
明日という未来が見えなくなった
ぬばたまの黒い闇から生まれ出た犬に
魂を食い破られ
その衝撃で
私の眼は一切の色彩を失った
生活の中から彩りが消え
蝶も蜻蛉も飛蝗も
黒いゴキブリに姿を変えて
ゴソゴソと心の襞を這い廻る
異形のものとなった
幻覚・幻視が日を追って酷くなり
黒い曼珠沙華の花を持つ〈あいつ〉が
頻繁に
白昼夢のごとく出現し
部屋の入口や会議室のドア前に
立ち盡くすようになった
5.混沌
T・S・エリオットではないが
四月は残酷極まる月だ
重いうつ病と診断され 出社禁止
入院を勧められたが
それを断り
ひと月ほど出勤を見合せ
病と向き合った
会社も事情を汲んで配慮してくれたが
役員である私は
長く休むことができなかった
会社の存続が危ぶまれる中
断末魔のごとく
コストカットの嵐が吹き荒れた
そんな社内事情などおかまいなしに
かねてより提起されていた
損害賠償請求訴訟は佳境に入り
被告である会社は
待ったなしの対応を迫られた
上級審での訴訟準備を進めて行く一方
内部告発に伴う
懸案の解決策を模索していた私は
何とか着地点を見つけ
軟着陸をさせようと試みたが ままならず
五里霧中の状況に陥った
難題が山積する中
敬愛する先輩役員が精神疾患で倒れ
会社を去った
右腕と頼りにしていたひとりの部下も
脳神経の病が昂じて急逝した
失った人たちの存在は大きく
心の穴埋めができないまま
辛苦の日々を送った
会社と心中して
いっそ散華してしまいたいとの思いが
強くなったのもこの頃だ
死へのいざないが夜ごと続いた
6.発癌・退職
うつとの孤独な戦いを続けているさなか
腎癌と大腸癌を次々に発症し
入院した
そして 二度の手術を受けた
予後は思ったよりよく
回復は早かったが
罹患した癌のステージを考えたら
五年後の生存は覚束ない
さらに検査で
肺に怪しい影が見つかり
担当医から腫瘍の可能性を示唆された
転移なのか
それとも原発性の新たな癌か
不安がよぎった
ストレスが
自分の心と身体を確実に蝕んでいた
満身創痍だ
完治しないまま職に復帰したが
それが甘かった
抗癌剤の副作用もあって
繰り返し波のように貧血に見舞われる
頭が重く 眼が回って
仕事のペースは著しく低下した
ものごとを失念することも多くなった
仕事が速いだけが取り柄の自分だ
それが機能しない以上
職に留まることは出来ない
そう悟り
辞表を出した
五十九歳六ヵ月での株主総会を最期に
退任
六十歳までは勤め上げようと
固く思っていただけに
無念だった
7.生還
縦糸にうつ 横糸に癌
ほつれあったこれらを解きほぐして
心の内を省察し 服薬と
ウォーキングに励む日々を送った
幸いなことに猖獗した
癌の再発はなく
うつ発症後四年目の秋を迎えた
ひとりの病葉(わくらば)が
一枚の銀杏の葉を見て
黄色に染まっていることに気づいた
蝶は蝶であることを
蜻蛉は蜻蛉であることを
飛蝗は飛蝗であることを
銀杏が黄色に色づくことを
自分の心はどこかで願っていたのだ
こんな当然のように存在した
生きとし生けるもの
わが心の友は
なんと得難い貴重なものであったことか
8.朝(あした)の光
今春で闘病十四年目を迎える
うつは厄介だ
全身から精気を奪い
性欲まで削ぎ落とす魔物だ
まさに土壺に嵌ったと実感する
もがいてももがいても脱出できない
『砂の女』の家に
囚われたようなものだ (*)
でもストレスを遮断して
治癒できると自分を信じれるなら
帰還できる
必ずできる
いまは良い薬も出来ているし
人は誰も
自らを治癒させる力を備えている
まだ寛解とは言い難いが
希望の光を感じている
始まりの朝(あした)は確かにやって来る
だから静かに待とう
老残の身なれども 私は
糾える〈福〉を待つ
(*)安部公房著『砂の女』