白い装束の人たち 上田一眞
天神さま(*)のお祭りは
子どもごころにとても楽しみだった
宮市(みやいち**) 天神山の麓
西側の入り口
お宮に登る石段のそばに
伯母の住む古い屋敷があった
十一月の御神幸祭(裸坊祭)のときは
親戚一同が集まり
賑やかに祝った
**
お祭りの日
天神さまの石段の下
正面入口にある大鳥居の元に
白い装束に身を包んだ人たちが
集まって来た
十人余
みな 野戦病院で身に纏う白い病衣に
旧陸軍の軍帽を被り
思い思いの格好で石段に座っていた
多くの人が義手・義足だ
地べたにひざまずいて
胸に
お金を入れてもらう小箱を下げていたから
物乞いする
傷痍軍人たちのようだ
アコーディオンを抱いて
軍歌を演奏している者
胸に金鵄勲章をつけて
ただ ボォ〜と突っ立っている者
全盲なのか 黒い眼鏡をかけて
身じろぎひとつしない者
様々だった
**
伯母方 古屋敷の前にも
白い装束の人たちが数人集(つど)っていた
伯母にお金をあげなくてよいのかを
問うと
露骨に嫌な顔をして
そねぇなこと せんでもええの
みな贋物じゃけえね
三国人よ!
憤っている様子だ
なるほど伯母の言うように
誇り高い帝国軍人が物乞いに堕すはずがない
贋物だ
と断ずる人は少なからずいた
彼ら白い装束の傷痍軍人たちが
贋物か
本物か
僕には分からない
ただ 昭和四十年代の半ばまでは
あちこちのお祭りで
その姿を見たから
四半世紀
彼らの櫛風沐雨の活動は続いたのだ
贋物だったら
とても風雪に耐えられまい
**
僕は戦争の悲惨さを
寝物語に父母からよく聞かされていたが
未経験な聞き手としては〈戦争〉を
抽象的に
感得するしかない
それだけに
白い装束で義手・義足を着けている様は
戦争があった事実を認識し
悲惨さを知るに
充分に足るものだった
彼ら傷痍軍人の姿は
見るに耐え難く
僕は崇敬の念すら持った
彼らの姿を見かけると
いつも自分のポケットから
五円玉や十円玉を取り出して
小箱に入れた
**
天神さま夏の例大祭があった日だ
夕刻 まだ陽が高いうちから
白い装束の人たちが集まり
石段下の児童公園で酒を酌み交わし
歌を唄って騒いでいた
普段 彼らのパフォーマンスが示す
惨めさ 憐れさ
哀切感など微塵もない
僕は酔っぱらって放歌高吟する彼らを見て
非常なる違和感を覚え
それ以降は
お金をあげるのを止めた
いま思うと 僕の中では
衆人からお金を恵んで貰ってる以上
酒盛りをするなどもっての外
ずっと不幸を背負って
道端に
手をついていなければならなかったのだ
**
僕は間違っていたのだろうか
いま一度 白い装束の人たちを顧みた
何より彼らも
いまを生きて行かねばならない
世知辛く
生きにくい世の中だ
それに彼らも人だから
憂晴らしに
酒盛りをすることだってあるだろう
細かな事情は知らぬが
無国籍者など
軍人恩給を給付されてない人も
あま多 いたという
もしそうなら
苛烈ないくさを国の為に戦って
深手を負った それを
救済援助もなく放置されているのだから
抗議のパフォーマンスをしたくなるのも
無理からぬことだ
ただ お祭りの日
強訴の如き集団での物乞いが
やむを得ない仕儀だったのか
評価はしづらい
**
さすがに 昭和四十年代も後半になると
姿が見られなくなったが
僕の瞼の裏には
白い装束姿がフォーカスされ
いまも強く焼き付いている
僕にとって 彼らの存在は
〈戦争〉そのものだった
腕や脚や光を奪った戦場は
何処だったのだろう
父がよく話題にしてた満州か
母の語ることが多かった北支か
伯父のいた南方の島々か
はたまた激闘の沖縄か
どんな闘いで傷を負い
生還したのか
まさに歴史の生証人だ
北浦の砂浜で拾ったライフルの空薬莢を
凌駕する重みがあった
また 地べたに這い蹲って
子どもたちから十円玉を貰っている
傷痍軍人
その姿は
ビジュアル的に
〈生きる〉ことの困難さをリアルに
訴えているように思えた
**
毎度 お祭りで
見かけた白い装束の人たちだが
手負いの姿の彼らに
未熟な僕は
未熟が故に
語りかけるだけの言の葉を
上手く見い出すことができなかった
いま 彼らに会うことができるなら
多くのことを問い質したい
しかし
それももう不可能だ
みな冥界に去り
歴史の中に埋もれてしまった
*天神さま 防府天満宮(山口県防府市)
**宮市(みやいち) 防府天満宮の門前町