孤独 静間安夫
同志の皆様へ
取り急ぎ一筆申し上げます。
皆様には、長きに亘って私の逃亡生活を支えて頂き、厚く御礼申し上げます。
思い返せば、爆弾製造の専門知識を買われて、私がこのグループにスカウトされたのが、50年前のことでした。しかし、私が加わって活動を始めたとたんにグループのアジトが摘発されてしまい、その後は、ただただ公安・警察の目をかいくぐって逃げのびることだけが、わたしの「任務」になってしまったように思います。
しかし、誤解しないで下さい。わたしはこの任務に意義を認めていなかったわけではないのです。たしかに、破壊活動を通じて社会不安を引き起こし、やがては混乱に乗じて現状の体制を転覆、理想社会を招来するという我がグループの成功のシナリオと比較したとき、この50年の結果は、決して受け入れられるものではないでしょう。ただ、たとえそうであったとしても、刻々と輪を狭めるようにして管理と警戒を強める現在の社会の中で、同志の助けを得ながら官憲の手をかいくぐって逃げのびる、という任務を遂行することで、何ものにも拘束されることのない生き方を貫く、というグループの美学を多少なりとも実現できる、とわたしには思えたのです。
例えば、運転免許証にせよ保険証にせよ、一切の公的な証明がない状況で日々の生活を営むことが、いかに困難であるかは、よくご存じでしょう。しかし、逆にこの試練を克服すれは、既存の国家や社会の枠組みが必ずしも絶対的なものではないと証明できる、とわたしは捉えたのです。そして、こうした幾多の問題を乗り越えて地下生活を生き抜くことが、同志の皆さんの支援に応える唯一の道、ひいては、われわれの目指す理想社会の一側面も示すことができる、と考えたのです。
ところが、わたしがこうして自らを納得させることができたのは、まだ若く気力もある年齢まででした。言い訳がましく聞こえてしまうかもしれませんが、逃亡生活も後半にさしかかると、これまでに経験したことのない孤独感に苛まれるようになったのです。もとより支援者の皆さんと直接会うことは許されていませんし、偽りの名前と経歴を使って何とか入り込んだ職場の同僚と、親しくつきあうこともままなりません。周囲の人々との交流を避け、ひっそりと生活し、文字通り、砂を噛むような孤独を耐え忍ばなくてはなりませんでした。
それでも、わたしは耐えました。耐えに耐えました。しかし、ついにわたしの忍耐も限界に達するときがきたのです。きっかけは、最初はただの腰の痛みと軽く考えていたものが、悪化し始めたことです。医師の診察を受けられないわたしにとって、やがて飲酒に頼る以外に痛みを紛らす術がなくなりました。そんなときです。勤め先からの帰り道、痛みを抱えながら一刻も早く隠れ家にたどり着いて強い酒をあおろうと急ぎ足で歩いていたそのときです。いつもはただ通り過ぎるだけの居酒屋の中から漏れてくる灯りと人々の声が、なんと懐かしく魅力的に思えたことか!
気がついたとき、わたしはすでに酒場の他の多くの客と酒を酌み交わしていました。彼らにとって、わたしがどこの誰であろうと、別にどうでもいいことであり、お互いに楽しく呑めればそれでよかったのです。そして、わたしが何より驚いたことは、そんな酔っぱらいたちの世界に、いや、これまでわたしが意識的に遠ざけてきた市井の幸福な世界に、自分が全く違和感なく溶け込んでいることでした。
もう、おわかりでしょう。そのとき、わたしを長きにわたって閉じ込めてきた自意識過剰の牢獄が崩壊したのです。わたしが人生の大半を捧げて闘ってきたものとは、一体なんだったのでしょう?結局のところ、わたしは独り相撲を取っていたに過ぎなかったのです。
それから、ほぼ毎日その酒場に通い続けた結果、腰の痛みは、耐え難いほど悪化し、もはや酒で紛らわすこともできなくなりました。命を縮める行為であることは、わかっていました。それでも、わたしはやっと掴んだ人々との交歓の日々を手放すことができなかったのです。もう孤独な世界には戻りたくなかった…それだけです。
そして、いよいよ、わたしにとって最期のときがきたようです。わたしは、これから、この50年間を通じて初めて病院に行き、せめて鎮痛剤を処方してもらおうと思います。本名も名乗るつもりです。なせなら、そのことによって初めて、自分の人生にケリをつけることができ、また、深い孤独からわたしを救ってくれた酒場の人たちに義理を果たすことができる、そう思うからです(もちろん、これもわたしの独りよがりかもしれません)。
同志の皆さん、最後の最後で裏切ることになり申し訳ありません。ただ、安心してください。警察の取り調べに応じて、何らかの情報を話せるほどの明瞭な意識は、わたしにはもはや残されていないでしょうから…。
○田△夫