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スレッドNo.3665

感想と評 3/8~3/11 ご投稿分 三浦志郎 3/16

お先に失礼致します。


1 上田 一眞さん 「紅色のすみれ」 3/9

今回は正統的な詩です。僕にとって、このサイトは時に花を勉強する場にもなります。今回はすみれ。花に出会うまでの過程、擬音が入り描き出されます。そしてひっそりと咲くすみれの姿です。
「花くれない」―慣用句ながらいい響きの採用です。花の美しさには常に少量の哀しみが混じるものですが、「散りどきを悟って~五日の命なのだ」のくだり、そういったものを充分感じさせてくれます。後半、ハチの登場により場面は動きあるものになります。僕はこの部分が一番好きで「はぐれ蜂」という呼びかけ、すみれとの関係、これら風景に同化する上田さんの心情、この三つがこの詩の読みどころでしょう。最後に擬音について触れておきます。それぞれ独立連にしてある。これは意図されたところでしょう。
これにより、間と呼吸感、そして詩の姿に変化を与えています。この効果も大きいです。佳作です。

アフターアワーズ。
すみれの画像を見ましたが、紅色は意外と希少価値なのかもしれない。それと特筆すべきは滑峡の美しさです。大変感銘を受けました。この景観もまた詩になることでしょう。


2 ベルさん 「はじける」 3/10

この詩の発生~完成時期が卒業シーズンと重なったでしょう。すてきな内容です。
タイトルの付け方がユニークで、だいぶおもしろいのです。卒業を終わりでなく始まりと捉え、弾けて羽ばたく、大変前向きですね。
この詩は時制が動きます。1~3連は過去を現在風に書く。手法としてアリです。いいですね。
部屋の整理~寄せ書きが出て来た。このあたりのエピソードも相応しく印象に残ります。
4~5連でワンセット、十数年と結婚。「さらに時が流れた」終連は娘さん。このあたりのタイム感覚は少し急ぎ過ぎですね。あるいは内容的に、このサイズで載せるには「自分か娘さんか?」―どちらかに絞った方がいいと思うのですよ。僕の感覚で言うと、娘さんには失礼ながら、今回は自分を書いたほうがいいような気がします。殆どが「自分」で来ているし、5連で止めたとしても最低限、詩はワンテーマで成り立つのです。改訂も容易です。「娘さん」でやると60%くらい動かさないといけないからです。
佳作二歩前で。


3 大杉 司さん 「静かの海」 3/11

その末尾を読むと、これは3・11の黙祷時の思いではないか、と想像されます。
僕が最も感銘を受けたのは3連目です。全く同感ですね。ここは当事者の心の襞に迫っているのがよくわかります。2万2千の死者・行方不明者を出し、今なお3万人の避難者(そのうち9割が福島県民)がいる、と新聞にありました。この災害を風化させず、鎮魂し、今後の防災の教訓にするのは勿論なのですが、13年経った今、不変なもの、変容せざるを得ないもの、が分かれてきたような気もします。それは誰それが良い悪いといった事とも少し違って、時間の作用のような気もして来ます。読んでいてそんな要素も感じたしだいです。タイトル通り、今、海は静かですが、静かだからこそ、この災厄について、あれを思いこれを思う。そんな黙祷の時間であるようです。 佳作を。


4 静間安夫さん 「孤独」 3/11

実名は出しませんが、これは長らく指名手配になっていて病死した過激派の男のことですよね。
こういったものを書く時に、もちろん賛美はできない。そうかといって、非難に終始しては当たり前過ぎてつまらない。そこで、静間さんの選んだ道は、事件の属性・非の部分はまずまず措いて、「その男」の逃亡という背景での内面や人間性に深く切り込み探ろうとした点です。これは思わず唸りたくなるほどの正しい選択でした。少し抜き書きします。

「何ものにも拘束されることのない生き方を貫く」
「この試練を克服すれば、既存の国家や社会の枠組みが必ずしも絶対的なものではないと証明できる」

これら言葉は事の是非をいったん外してみると、非常に重く考えさせられるものです。しかし、男はそれらと引き換えに、言いようのない内面的辛苦を背負うわけです。すなわち年老いてからのありようです。やはり年齢とは肉体的にも精神的にも、如何ともしがたいものであります。
ひとつのエピソード。酒と人々との触れ合いーこれは事実です―は市井の幸せとして、革命的使命とは相入れないものです。男はまたこの幸せによっても苛まれるわけです。年齢と共に革命意識は薄れていったように思われます。死に際して男は本名を名乗ります。それは革命云々ではなく、一個人として終わりたかったからでしょう。その消息はこの詩の書き方の正しさを証明するものであるでしょう。とにかく、この文章力には圧倒されます。上席佳作を。

アフターアワーズ。
男が死んだ病院とは当家もよく行ったところです。男が勤め生活していたのは隣町です。
(何処かですれ違ったかもしれない!)この事件を知った時、衝撃を受けました。50年も社会的保証を受けず暮らすとは驚異的なことです。こんなことがあるんですね。世間とは、人間とは、わからないものです。若い頃の指名手配写真と晩年の写真を比較すると(これじゃあ、わからないかもなあ)が偽らざる思いです。この事件は男の死によって完全に終わりました。しかし真相は闇へ。そして今後の防犯に資する機会は全く失われた。そこに禍根を残したわけです。いっぽうで、本名を名乗ったのは(自分は見事逃げ切ったのだ)という自負の表れだと取る人もいます。ともあれ、あれから少し経ちましたが(あの男の生とは一体何だったのだろう?)そんな思いは今も僕の中で残っています。


5 晶子さん 「同じ時代の悲しみに」 3/11

この詩は2連が最も大事で、しかも深く考えさせられるのです。少し難しいのですが、たとえば―。
自分の両親については悲しみは残っているが、曾祖父母やその又父母ともなると、特に悲しみは湧かないわけです。ここはそういった事を言っているのかな?と思ったのですが―。ここが違うと、この詩の全てを読み誤ることになってしまうのですが。もしそうだとして、構わず話を進めます(笑)。
さて、ここで関与してくるものは何だろう?時です、時間です、時代です。そうすると、タイトルと繋がるかな?そんな風に思っています。人は確実に死にます。従って悲しみは絶えることなく続いていくのですが、その悲しみは人によって、時期によって変容するものである、そんな風に捉えています。このように、この詩は認識をより大きく捉え、その中の「今」を取り出して見せてくれたように感じています。それも自然死というより不慮の死に方に重心が行っているように思える。そう考えると、あるいは別解釈の一端として3・11と能登半島地震も関係してくるようにも思えてきます。
正直に言うと(もう少し何か書いてもいいんじゃない?)といった気はしていて、たとえば、事例的に特定の事態や人物を出すとか。そうすると、より理解も深まり、一石二鳥といった気もしますね。 佳作半歩前で。


評のおわりに。

日記風に―。
3・11は東日本大震災の日、と同時に母の命日でもある。新聞や町内放送で、その時間での黙祷要請があった。
たまたま家にいたので黙祷した。だが、母に線香をあげるのを忘れてしまった。
(母者、許されよ)   では、また。

編集・削除(編集済: 2024年03月16日 19:35)

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