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スレッドNo.3681

三浦様 ありがとうございました。

三浦志郎様

『同じ時代の悲しみに』に評をいただきありがとうございます。
お礼が遅くなり申し訳ありません。
島様に投稿した作品もそうなのですが、熟成が足りないなと感じています。島様に投稿した方は気持ちの、三浦様に投稿したものは思考のまとまりのです。
本来ならお礼なので、作品について書いた人間がごちゃごちゃとこちらに書くべきではないと思うのですが、たぶん、このままでは何のことを書いているのか直接に書くのを避ける癖が直らないと思いますのでお付き合いください。

私の住んでいる所は関東大震災の被害があった所なので、その時何があったかということを聞くことがあります。山下公園は震災の瓦礫を埋め立てて作られ、家の近くの神社の階段もずれたそうです。
鎌倉の長谷寺に行けば、見下ろす市街地のどこまで津波が来てしまったのだろう、来るのだろうと怖く、悲しくなります。
第一に感じるのは恐怖です。

東日本大震災の時に揺れはしましたが、身内や知り合い家財全部無事、でも恐怖は強くありました。
ただ恐怖だけではなくて、台所で不意に亡くなった方々のことを思って恐怖ではない感情に支配されて蹲り動けなくなることがありました。
関東大震災で亡くなった方も東日本大震災で亡くなった方もどちらも知り合いでもないのに。
身内を不慮の事で亡くされた方とそれを聞いただけの私とは感じ方が違う。慰霊碑に書かれたお名前をその時生きている人間が見るのと、その後生まれた人間が見るのとでは違う。
気が狂いそうなほどの思いの相手の死が歴史の小さな小さな粒の様になってしまう。
その違いが私は怖くて直接書くことから逃げてしまっている理由でもあり、この詩を書いた理由でもあるのだろうなと思います。
たぶん、違いがあるのは当然のことなのだと思うし、そうでなければならないのだと思います。日常が脆いものだと頭のどこかでわかっていながら、それをしまい込まなくては生きていけないように。
ただそれに納得しきれない自分がいます。
結局とりとめのない文章になってしまって申し訳ありません。
ありがとうございました。

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