覆輪舌の野花 上田一眞
◆エビネ讃歌
かつて
長門と呼ばれた山口県西・北部は
エビネ〔海老根〕蘭の宝庫だった*
五月
ゴールデンウィークが終わる頃
ちょっとした杉林に分け入れば
うす暗い林床に
シダ類が繁茂するなか
サイハイランやムサシアブミと同居する
数多くのエビネを見ることができた
春を謳う小鳥たちや
年に一度の花どきを迎えた
山野草に会いたくて
カメラ片手に山稜を渉猟闊歩した
そして
一輪のエビネにまみえたとき
こころ躍らせてファインダーを覗き
夢中でシャッターを切った
杣道の向こう
そこには花が支える
みやびで濃密な空気の淀みがあった
◆キエビネ
子供たちを連れて
今富ダム**へ遊びに行ったとき
車を停めると
ぷ~んと甘い香りが漂った
あたりを支配する香りの渦
駐車場そばの杉林に入ってみると
ほんの入り口に
大きなキエビネが二株屹立していた
このキエビネ
長門の山々を代表するエビネだ
弁も舌も黄一色の大花
暗い涸沢にこがね色の光彩を放つ蘭
特徴的なのは
株が大振りで背も高く
なかには
強い芳香を放つ個体があることだ
伊豆諸島 御蔵島のニオイエビネや
コオズとは種類を別にし
風合いも異なるが
漂う香りの芳醇さはいっしょだ
その痺れるような芳香は
洋蘭の女王 カトレアに優るとも劣らない
◆ジエビネ
石灰岩の小山が多い 美祢・重安
人家の目と鼻の先 竹林に乱れ咲く
ジエビネの群落に出会った
キエビネと違い
花も株も小振りだが
華やかさでは引けを取らない
よく見ると花々の中に
見事な覆輪舌を持つものが数本あった
赤茶弁 薄紅覆輪舌
思わず見入る
園芸物ではない天然の覆輪舌花
清楚ななかに漂う背徳の香り
花弁を見つめていると
サド公爵のジュスティーヌの姿が現れ***
その官能に
私は魂を籠絡されてしまった
◆ナツエビネ
ナツエビネ 漢字では〔夏海老根〕
字のごとく夏の盛りに咲く変り種
紫色の涼しげな花
美祢・長門両市の境にある山
花尾山で山歩きを愉しんでいるときだ
広い山塊に歩き疲れ
ミツマタの木陰に腰をおろして
涼をとっていると
長い花茎に
ぽろぽろとつく面長の小花があった
ナツエビネが一株
雨を呼ぶ
東風(こち)に吹かれて揺れている
風に湿り気を感じ
慌ててカメラにその姿を収めた
白紫弁 紫覆輪舌
やがて雨粒がレンズを襲う
突然の驟雨に踊るこの花も
見事な覆輪舌を持っていた
◆キリシマエビネ(鹿児島)
鹿児島・大隅半島のど真ん中
志布志の街に 従姉が嫁していた
薩摩隼人の夫君は東洋蘭の愛好者
カンランがお好みだ
“薩長連合” でカンラン探そうか…
そのように夫君から誘われ
カンランの自生地 肝属(きもつき)を訪れた
志布志から車で一時間ばかり
もう九州も最南部だ
海岸近くの明るい疎林の中
細葉のカンランの株を
従姉夫婦と三人で探した
花どきではないので葉を鑑賞するだけだ
二時間近く藪漕ぎしても
見つからず
諦めかけていたとき
藪の中に数本のエビネを発見
小さな白い花が
うつむき加減に咲いていた
うわぁ キリシマ
しかも 白花だ!
九州でも
ごく一部でしか見られなくなった
幻のキリシマエビネが
崖のそばで
海からの南風(はえ)に揺れていた
幸運にも花茎があがっていたので
見つけることができた
◆長門峡のエビネ
中也の名作「冬の長門峡」
この見事な詩の舞台
長門峡(ちょうもんきょう)は
日本海に注ぐ阿武(あぶ)川の上流域にある
この峡谷は景勝地であるとともに
好事家には
エビネの自生地として名が通っている
峡谷沿いの小道を散策しているとき
甘い香りが漂い
姿見えぬ
エビネの存在に
匂いで気づかされることがままあった
長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。 ****
と詠う「冬の長門峡」
幼子を亡くした傷心の中也は
寒い寒い冬を強く感じていたのだろう
冬から春へ季節が移ろい
エビネの香り揺蕩う春の長門峡ならば
中也のこころも
少しは癒やされたのではと想像した
◆絶滅落胆
エビネだけではない
カンラン ウチョウラン〔地生蘭〕
セッコク フウラン〔着生蘭〕
サギソウ トキソウ〔湿地蘭〕
山口県内のどこを探しても
もう見ることはほとんどない
いずれも絶滅が危惧されている野生蘭だ
エビネたちは何処へ行ったのか
深山の沢筋に隠れたか
心無い採取者の
「盗掘」という所業で貴重な蘭が滅んだ
覆水盆に返らず
もう取り返しがつかない
消えたエビネ王国
私が密かに眼で語りあった山野の恋人
エビネやサギソウ
年に一度しか会えない(咲かない)
天の河の二人に等しい 野の花
あの馥郁とした香りを何とか
取戻せないか…
ひたすらそう願った
〔追記〕
覆輪 花弁や舌に入る細い色の帯のこと
*山口県を構成する周防と長門
エビネは長門に多く 周防には殆どない
湿潤な日陰を好むため乾燥している周防で
は生育しないのであろう
**今富ダム 山口県宇部市今富
***ジュスティーヌ マルキ・ド・サド
『悪徳の栄』澁澤龍彦訳より
****中原中也「冬の長門峡」より一部抜
粋