紅白の桜 静間安夫
昔から桜にまつわる不思議な話は数多い。それは必ずしも近代になる前の古い話ばかりではない。今、われわれが生きているこの時代にもある。何よりも、このわたしが、そうした話の体験者のひとりなのだ。
あれは、東京の本社から地方の工場に転勤して少し経ったころのことだ。例年になく寒い冬も終わり、都会では味わえない彩り豊かな春の風景が広がる中、ちょうど頃合を見計らうように、駅の南に広がる田んぼの向こう側で、紅白の大きな桜の樹が開花し始めた。朝、その様子をプラットホームから見たわたしは、是非とも間近で花を愛でたいと思い、いつもの国道沿いの道ではなく、田んぼの中を遠回りして工場に行く道を選んだ。
紅白の桜の樹まで辿り着いてみると、それぞれが樹齢百年を超えようかという古木であること、二本の桜が由緒のありそうなお屋敷の門前を護るように植えられていることがわかった。わたしの推測を裏付けるように、門から石畳みの道が、こんもりした森の中を抜けて奥の方へ続いており、ここからは見えないが、きっとその先に何代も続く旧家が建っているに違いない。それにしても、桜花の透き通るような美しさ、それに樹々の枝振りの見事さはどうだろう!如何なる自然の妖精の手になるものだろうか!
そんなふうに見とれていると、突然「おはようこざいます!」と挨拶されたので、びっくりして声のする方を見ると、ランドセルを背負った十歳くらいの利発そうな男の子が、石畳みの道をこちらに向かって歩いてきたのである。「おはよう!」多少動揺しながら挨拶を返すと、その男の子はわたしの前に立ち止まって礼儀正しくお辞儀をし、それから門を出て工場とは反対の方角に向かって再び歩き出した。おそらく、男の子の通う小学校がそちらの方向にあるのだろう。ともあれ、 こんもりした森の奥に、今もって誰か人が住んでいるのは確かなようだ。
それから数日後、工場の社員食堂で、たまたま古参の社員のひとりと一緒に昼食をとる機会があった。きっとこの辺の事情に詳しいだろうと思って、わたしはあの紅白の桜と男の子の話をしてみた。ところが、その社員はわたしの話を聞くと、急に物思いに沈んだような表情になり、しばし黙り込んでしまったのである。ようやく口を開いた彼は次のような話をしてくれた:
「あんたの言うとおり、あの紅白の桜が咲いている門の奥には、この辺で一番の旧家があったんだ。何しろ戦争の前は、駅から他人の土地を一歩も踏まずに、お屋敷まで行けたほどだったから。ただ、今は誰も住んじゃいない。建屋もすっかり古さびて、まともに残っているのは、桜の樹だけさ。
もともと、あの家は勤皇の家柄でね。幕末には倒幕の志士を匿ったこともあるそうだ。そんなわけで太平洋戦争のときは、当主が周囲の見本になろうとして、軍隊に積極的に協力したばかりか、自分の息子にも、お国を護るため、門前の紅白の桜のように潔く散ってこい、と諭して戦地に送り出したんだ。結局、息子はフィリピンで戦死、息子の嫁も後を追うように亡くなり、子供は残さなかった。
やがて戦争が終わると、軍部の連中が嘘八百を言ってたことがわかり、おまけに現人神のはずの天皇陛下まで『人間宣言』をしたとあっては、当主の受けたショックは並大抵のものじゃなかったようだ。いわゆる『軍国主義のイデオロギー』ってやつが全くの虚妄であったこと、また、その思想を無批判に受け入れて、息子を死に追いやってしまったことに、すっかり打ちのめされてしまったのさ。さらに農地改革で土地の大半を失い、旧家の主としての誇りも失ってしまう。そんなとき、絶望した当主にとってみれば、あの桜の樹を見るたびに自分の過ちを思いだすことになったのだろう、つらさに耐えかねて二本とも切り倒そうとしたそうだ。だが、『桜に罪はありませんから』と当主の妻が必死で止めて、かろうじて切られずに残ったのさ。
その後、この夫婦は、息子も含めて戦死した人々への贖罪の気持ちからだろう、六歳になる戦災孤児を養子にとって育てたそうだ。うっすらと覚えているよ、確か俺がこの工場に勤め始めたころだったと思うけど、あのお屋敷の門前でそれらしい男の子を見かけたことがある。透き通るように色の白い子だったな。
なんとも不思議なのは、その男の子が小学校の卒業式の日、突然、亡くなった息子の声で話し始めた、というんだ。『自分たち夫婦は紅白の桜に宿っている、あのとき、切らないでくれて本当にありがとう、自分たちはずっと父さんと母さんを見守っている、お身体を大切に、云々』そう両親に告げたそうだ。両親は腰を抜かすほど驚いたけれど、何かしら目に見えない世界の人が直接語りかけてきた、と思ったという。なぜなら、木を切ろうとした事実は老夫婦以外は知らないはずだから…。ところが、それらのことを告げた翌日、当の男の子が神隠しに会ったんだ。それも、今に至るまで行方不明になったままなのさ。
老夫婦はどれほど嘆いたことだろう。でも二人はわかったんじゃないかな。その男の子の役割は、桜の樹の言葉を自分たちに届けることだったと。その役割を終えた今、桜花の精に姿を変えたのだということを。そして、二人はその後も紅白の桜を守りながら心穏やかにお互いに長寿を全うしたそうだ。ところが、老夫婦が亡くなって既に十年ほどがたち、あのお屋敷には、さっき言ったように、今、誰も住んでいないはずなのだが…」
これが、その古参社員がわたしに話してくれたことだ。すると、わたしが出会った、あの利発そうで礼儀正しい男の子は誰だろう。天に召された老夫婦に代わって、また再びあのお屋敷に戻って桜守りになった、花の精でもあろうか。そう思うと、怖いとか背筋が寒くなるとか、そんな感じは微塵もなかった。むしろ、不思議と、懐かしくも床しい気持ちがしたのであった。
なぜなら、この世に生きる人間の苦しみの半ばは、死者との交感によって救われるから。その死者との間を取り持ってくれる者たちが、どうして恐ろしいことがあろうか。(了)