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スレッドNo.3790

2024.4.9~11投稿「感想」です  秋冬

2024.4.9~11投稿 感想

※明日から仕事が忙しいため、早めに失礼します。

 こんばんは。
 MY DEAR同人の秋冬です。

 井嶋さんの批評を期待されていた方、佳作等の評価を楽しみにされていた方には申し訳ありませんが、今回はピンチヒッターのため感想のみとさせて頂きます。恥ずかしながら、あまり詩を読まずに詩を書くようになったものですから、投稿者の意図を私が十分に汲めずに、的外れな感想もあるかと思いますが、参考にならない場合はスルーの上、ご容赦下さい。


『雨の妖怪』 喜太郎さん(2024.4.9)

 優しい、可愛い、楽しい、嬉しい、懐かしい、淋しい、悲しい、愛しい。
 そして、羨ましい、微笑ましい。
 緑と赤と角砂糖の白。
 雨の音、匂い、角砂糖の甘さ。

 音、色、匂い、味を感じながら、見えるものが見えなくなるという時間の流れ(人としての成長)を、心の揺れとともに、見事にまとめ上げていると思います。少女をそっと描写する最終連が「私」にも読者にも希望を与えます。

 あの花壇とある花壇。
 少女は実在するのか、あるいは幻影なのか。
 どちらなのだろう? と考えましたが、どちらにも取れるのも魅力だと思います。

 個人的な考察として、最終行の「少女の目はキラキラと輝いていた」があった場合となかった場合を読み比べてみました。余韻という意味で、だいぶ印象が変わりますが、どちらもありかな、と思いました。ご参考までです。

 それにしても「私」は優しいですね。雨の妖怪を「あなた」と呼び「早く食べないと雨で溶けちゃうよ」と心配する。だからこそ「ごめんね/いつからか見えなくなっちゃったから…」がとても切なく沁みます。そして、少女の存在に救われるのです。とても良い詩だと思いました。

 心がほっこりする詩をありがとうございました。



『ただこの高揚感を愛す』 紫陽花さん(2024.4.9)

 私も日常を好んで書きますが、紫陽花さんは日常を描くのがほんと上手だなと思います。本詩も面白く読ませて頂きました。

 日曜日は特売日。これだけで気分が高揚します。しかも、目的地は業務用スーパーで、開店前から満車になるのだから、余計にわくわくします。開店をまだかまだかと待ちわびる行列、開店と同時に店内に流れ込む群衆。心の奥底から、ふつふつと戦闘意欲が湧き上がります。

 ところが「私」は行列にも群衆にも加わらない。入店待ちが落ち着いたところで、ゆるゆると車を降りて「ガツガツしては外れを引いてきたような今までを思い返しながら」入店する。戦闘意欲が湧き上がっていた読者(私も含めて)は、不満を感じます。

 この肩透かし感が見事に効いている。

 冷静なフリをした「私」だったが、一歩入ってしまえば「押し合いへし合い笑い合い」ながら、次々と買い物をする。気づけば、お祭り騒ぎの輪に加わっている。読者も安心して高揚感を共有できます。

 そして、祭りの後。自動ドアから一歩出た瞬間に、現実に戻って行く淋しさ。しかし、来週の日曜日を早くも思う。読者の期待を裏切らない最終行はGoodです。

 本詩は、読者に高揚感を持たせることができるかどうかが全てだと思います。その点では、見事に成功しています。

 ひとつだけ、期待を込めて提案させて頂きたいのは、タイトルは「ただこの高揚感を愛す」で良いと思いますが、詩の中に「高揚感」を入れずとも、読者は高揚感を持てるのではないか、ということです。「押し合いへし合い笑い合い」「お祭りみたい」だけでも十分ではないかと思います。ご参考までです。

 元気が出る詩をありがとうございました。

※私は、閉店間近のスーパーで半額シールの貼られた惣菜をめぐる戦いに日々明け暮れています。戦いと言っても、店員がシールを貼ったと同時に手が伸びる好敵手には太刀打ちできないので、残った半額惣菜を精査してカゴに入れる程度ですが。



『鐘』 理蝶さん(2024.4.9)

 理蝶さんの詩作は自由自在ですね。何でも書けてしまう。しかも、器用貧乏ではなくて、どれもレベルが高い。本詩も刺激を受けながら読ませて頂きました。

 とても力強い詩です。

 鐘の音。火、血、夕暮れの赤。

 私の耳元でも鐘が鳴り、視界も真っ赤に染まっていく。焦り、怒り、願い、覚悟が束になって押し寄せ、言葉や叫びに導かれるように私の心も燃え上がる。
 稚拙や陳腐な表現だったり、リズムが悪いと、読んでいて白けてしまうものですが、『鐘』はぐいぐいと読者を引っ張り込む。むしろ、心に火をつける。正直に言うと、私にはこの熱量で書き切る自信がありません。象徴的な音と色を交えながら、内面を抉り取るような連なりに圧倒されました。

 ひとつだけ気になったのは「おれだけに聞こえる」という箇所です。『鐘』は聞こえる人と聞こえない人がいて、「おれ」は聞こえる人なのだと思います。世の中の多くは聞こえない人なのかもしれませんが、『鐘』を読んで、私には聞こえてきました。とはいえ、実際は、聞こうとして聞こえてきたので、本来は聞こえていない人の一人なのだとは思いますが。「おれだけ」にしてしまうと、内へ内へ向かってしまい、せっかくの熱量がもったいないような気がするのです。一方で、「おれだけに聞こえる」という限定が、孤独感を一層深めているとも言えるので、私の独り言だと思って聞き流して下さい。つらつらとすみません。

「ほんとうに本当なこと」「ほんとうに本当な物事たち」「原始のかたまり」

 理蝶さんの真意からは外れるかもしれませんが、私が憧れる岡本太郎の熱量や作品『傷ましき腕』をどこかに感じながら、『鐘』を読みました。私が追いかけても追いかけても遠く及ばない太郎の熱量を理蝶さんは持たれている、と思います。詩なのに岡本太郎を持ち出されても困ると首を捻られるもしれませんが、私としては最高の賛辞です。

 心が熱くなる詩をありがとうございました。



『声』 秋乃夕陽さん(2024.4.10)

 なんでしょうね。とても魅力のある詩です。
 気になります。どんな声なのか。
 「引力のような力強い」「拐かしにも似た」その声が。

 なんでしょうね。とても魅力のある詩です。
 モノクロの世界なのに、色が見える。
 「週刊誌に挟まれた」「不思議な絵」だけ色鮮やかです。

 なんでしょうね。とても魅力のある詩です。
 連分けしていないのに、時間を感じる。
 私もなぜだか懐かしいと思ってしまいました。

 思春期に目にした「女の顔と富士山と訳のわからないもの」がもたらした妄想は、強烈な印象を残したものの、次第に色褪せ、錆びていく。喪失感と懐かしさが静かに時の間を漂い続ける。

 連分けをせずに書くことがあまりないので、『声』を読ませて頂き、とても勉強になりました。上手くないと、平坦で薄っぺらい詩になってしまうので、秋乃夕陽さんの筆力を感じています。特に「拐かしにも似たその声は/祖父の呼び起こす声で/ふっと霧散した」は秀逸だと思います。

 祖父、週刊誌、女の顔と富士山といった輪郭が見える言葉があるので、訳の分からない、何だかはっきりしない、あやふやな雰囲気が上手く醸し出されています。読者によって、「声」だけでなく、頭に浮かぶ映像がかなり違うのではないでしょうか。そう言った意味で「なんでしょうね。とても魅力のある詩です。」という冒頭になりました。

 妖しく美しい詩をありがとうございました。



『抜け殻』 司龍之介(2024.4.10)

 司さんの詩はライブ感がありますね。先日読んだ『蟻んこ』もそうでした。投稿欄の中にあって、とても個性が光っています。

 蟻の次は体外離脱。非日常的な設定を好まれるようです。テーマとしては、それほど珍しくはないと思うのですが、「俺」の独り言がとにかく面白い。この辺りは、笑いのセンスなのだと思います。あぁ、困った…ではなく、自分の全裸を見て無様だと笑ってしまう。実にあっけらかんとしていて、私も一緒に笑ってしまいました。

 ユーモア抜群で楽しませて頂きました。

 と疾走感に誤魔化されて味気ない感想をまとめてしまいたくなるところですが、司さんの詩は表面の軽さの裏側に深さがあります。明るく、軽いノリで笑い飛ばしてしまう「俺」につい騙されてしまいますが、もともと「俺」は気持ち的に沈んでいるのです。だから、散歩気分で抜け出したとしても、抜け出した「俺」も沈んでいるはずなのに、対照的に底抜けに明るい。本性はどちらなのだろう? 

「抜け殻の俺はなんて無様なんだろう/笑える ハッハッハ」「何で沈んでたんだろう/何でだっけ 忘れた まぁいっか」「でも全裸で死ぬのはなぁ/ちくしょう! 戻るしかないじゃないか」(ああ、楽しい!)「恐ろしいほど前向きになっていた/これでいいのだろうか 逆に怖い」

 「俺」は明るいだけでなく、意外と人情派で冷静な性質も垣間見せる。きっと、どちらも本性なのだろう。けっこう、真面目に生きているに違いない。明るさと暗さ(前向きと後ろ向き)をどちらも兼ね備えているのは、「俺」だけでなく、私も含めてみんな同じなのだと思う。バランスしている時は調子が良いけれど、バランスを崩すと気分的に沈んでしまうのだ。

 『抜け殻』の「俺」は体外離脱してリセットした訳だが、自己観照というか、追い込まれたら客観視したり、開き直ってギブアップしてしまうのも大事なのだ、ということを「俺」は教えてくれる。

「沈んでたんじゃなくて/飛び上がるためにただしゃがんでたんじゃないのか/だけどこうやってこの男は/人生を乗り切ってきたんだろうな」

 それまでのドタバタや笑いが強すぎて、油断すると読み流してしまうのだが、最後はしっかりと人生論を語っている。司さんの詩は、かなり計算されていると私は思う。そして、実は深い。

 軽くて深い詩をありがとうございました。

※「でも全裸で死ぬのはなぁ/ちくしょう! 戻るしかないじゃないか」の後ですが、戻ろうとしたら戻れない。「あれ? やばいじゃん どうしようどうしよう」と混乱して、無様な全裸の自分に「笑って悪かった/頼むから 受け入れてくれ」とお願いして戻る……みたいな件があると、(ああ、楽しい!)が、より円滑に結びつくのかな、と思ったりもしました。ただ、そうなると「恐ろしいほど前向きになっていた/これでいいのだろうか 逆に怖い」との関係性が微妙になりますね。私としては、魂と体は主従でなく「50/50」と思っているので、余談として書かせて頂きました。



『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』 荒木章太郎さん(2024.4.11)

 なかなか難解な詩です。

 もちろん、荒木さんの中では明確なイメージがある訳ですが、読み手である私には、すんなりと読み解くことができませんでした。

 タイトルは『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』ですが、ペペロンチーノとマティーニに関しては何も書かれていません。「朝陽」と「夕陽」が染まる…がヒントなのかもしれませんが、『うまい店』と書かれると、どのようにうまいのか、他の店に比べて何が違うのかが知りたくなります。ところが、書かれていない。これが一つ目の謎です。

 『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』で注文したのは「コテコテのショコラ塗りたくった/デコレーションケーキ」と「どこの豆がどれくらい混ざっているのか分からない/ブレンドコーヒー」で、ペペロンチーノとマティーニではありません。しかも、ケーキとコーヒーにはきちんと説明があります。しかし、あまりおいしそうに思えない。『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』だから、ケーキもコーヒーもおいしいに違いないと思うのですが、そうでもない。なのに、どうしてデコレーションケーキとブレンドコーヒーを注文したのか? これが二つ目の謎です。

 もしかしたら「額縁のような喫茶店」とあるので、『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』という絵の中に迷い込んでしまったのだろうか? とも考えました。ひょっとして、だまし絵? という想像もしてみましたが、たぶん違うと思う。

 なかなか難解な詩です。

 私の読解力不足だったら申し訳ないのですが、『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』で、カウンターの縁に座り、ほとんどの客が頼む看板メニューを無視して、デコレーションケーキとブレンドコーヒーを注文するという思い切った挑戦をしてみた。だから、真っ赤になって縮こまっている。ところが、そんなこと気にするな、「汝自身であれ」と主人が手を振ってくれた、ということでしょうか。違ったら、ごめんなさい。

 タイトルは『ペペロンチーノとマティーニがうまい店』ですが、主題は「汝自身であれ」なのではないのか、というのが私の考察です。自信なく、ゆらゆらと揺れている今の私には「汝自身であれ」がとても響きます。

 タイトルを何度も読んだら、無性にペペロンチーノが食べたくなりました。
 じっくりと名言を味わう詩をありがとうございました。

※主人も気になります。どんな人生を歩んできたのだろう? どんな風貌なのだろう? どんな声なのだろう? 削りに削ったのだと思いますが、謎多き詩です。名言ではなく、主人の独自の言葉や迷言だったら、また違う味わいの詩になったと思います。主人の言葉を変えて試してみると、色々な可能性が見えてくると思います。こちらは、ご参考までです。

※今頃になって思いついたのですが、朝はペペロンチーノを食べに来て朝陽が染まり、夕方にマティーニを飲みに来て夕陽が染まる。真っ赤になっているのは、マティーニを飲んだから、なのでしょうか? 朝からペペロンチーノを食べるという発想がなかったので、今まで思いつかなかったのですが……。私の読解力不足で本当に申し訳ないです。


 以上になります。
 井嶋さんの批評に比べるともの足りなさを感じている投稿者の方も多いと思いますが、引き続き、MY DEARへの投稿をお願いします。私自身も詩だけでなく、批評もできるように成長したいと思います。
 六名の皆様、それぞれの大切な詩をじっくりと読み感想を書く機会を頂き、ありがとうございました。

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