感想と評 5/3~5/6 ご投稿分 三浦志郎 5/10
予定の関係でお先に失礼致します。
1 理蝶さん 「カントと小石、宇宙と人間」 5/3
評を書く前にカントを大急ぎでさらいました。大雑把に言えば、彼は今まで神の庇護や後見にあった理性や認識を人間の自主性の側に解放したとでも言えばいいでしょうか。カントを扱うだけに、なかなか抽象度を高めてきています。この詩にも原因~結果の因果関係、認識論、「かみさま」の存在が少なからず語られています。上記のことを考えると、特に7連目と最終連は象徴的、暗示的と言えそうです。認識することにおいて神の手を借りずに人間本位で、かつての神の意義を人間が自ら行う。そんな風に感じています。宇宙が何故出て来たかは、残念ながらわかりませんでした。 タイトルから察するに「大いなるものとちっぽけなもの」の対比。世界への対し方の隔絶―といったようなことも感じています。
甘め佳作を。
2 温泉郷さん 「連休」 5/3 初めてのかたなので、今回は感想のみ書かせて頂きます。
よろしくお願い致します。
少しライトな書き方で、どこかユーモアも感じるようです。「僕」は大汗かいて各種提案するのですが、「君」(奥さん?)の気の抜けたような受け答え。常に本に接している。このおざなりな返事がかえって際立っていて評者は好きです。キャラが見えるような気がします。 けっこう夫婦間でありそうなセリフと場面ではあります。「私が行ったことがなくて~どこでもいいの」の受け答えは秀逸で、(実に上手い逃げ道だなあ)と思いますね。英語で言うCLEVERといった感覚でしょうか。実際にカイツブリのいる公園の池に行きますが、ここでも本に夢中になっている。最後はオチ的というか、ユーモアで終わっています。ここがキャラの極め付けでしょう。この詩はあっけらかんと額面通りに読んでいいのか、それとも、この詩の裏に何か深遠な節理とか哲学が内蔵されているのか気になるところではありますが、まあ、面白い二人ではあります。又書いてみてください。
3 上田一眞さん 「組曲 海峡」 5/4
またまたの大作ですね。上席佳作。僕は今回も手法としてプリントアウト、地名、海名、島名の全てに赤丸をつけ、WIKIとグーグルマップを駆使して土地勘、航路の把握に努めました。これ、全て事実ですよね。とんでもない話です! 大航海です!よくぞご無事で帰国されました。まずは「Ⅰ、Ⅱ」。時制のスライドを見せながら、この大作の序章になります。僕にとっては、少し観光ガイド的に読めます。「関門トンネル人道」と、やはり源平合戦の壇之浦ですね。この詩全体にとっては、航路の暗示と一族の関係性を予告した意味で価値があると思っています。さて、いよいよ「Ⅲ」。僕にとっても大変な「評航海」です!
地図を見て思ったのは「六連島」。ここから始まっている。ここはすでに日本近海、内海への玄関口ですね。すでに行程の3分の2はクリアしています。ここを起点として物語を一挙に8・15まで逆戻りさせる。この章でも時制のスライドは行われているわけです。ここで見ておきたいのは、祖父の決断力と一族・郎党の従順と絆でしょう。難所は文中、小タイトルにもある通り、むしろ関門海峡のようです。機雷あり、航路狭し!操船の至難が想像されます。「機雷~狙撃~爆発」のシーンは手に汗握るものがあります。もうこれはひとつの戦いですよ。「スクリューの空回り」がいかにもリアルです。ことほど左様な艱難辛苦。本当によく帰って来られました。地図を追って読んでいくと、それがありありとわかるのです。この詩が語る通り、当時の満州・朝鮮からの引き揚げは言いようのない苦労あり、文学も多く取り上げ、日本現代史の重要なエピソードであるでしょう。この作品の手法ですが、時制をスライドさせることによって、変化をつけながら、最終的に有機的に物語を繋ぐ。僕はこういった手法を、若い頃、森村誠一の小説を読んで、多少違和感を覚えながらも(こういった書き方があるんだ―)と感銘したことでした。こういった手法は普通の中型詩でも採用可能ですが、長編詩においてこそ威力を発揮するというもの。この手法はその意味で適材適所と言えるでしょう。
アフターワアーズ。
ここからはエッセイ風に。 追記も驚きです。まさに律儀の鏡。ところで壇之浦・満珠・干珠(源平関係)・三田尻(海軍関係)等、興味深かったです。軽い指摘があるとすれば、昭和35年と昭和55年のくだり、冒頭付近に記した以外の役割としては、少し曖昧な感触を受けました。それと、これは指摘ではありませんが、文中ある通り、上田さんはまだ復員していない「末っ子の父」のお子さんですよね。そうすると、リアルタイムにはまだこの世に存在していない。けれども、ここまで克明に書けることを軽く紹介―伝承をほのめかすとか―しておいたほうが、書き手も読み手も居心地が良いように思ったりするのです。 最後に海について。僕も比較的海の近い所に住んでいますが、源平や海軍の昔を引くまでもなく、内海・外海共に有しているので「海は西国」というイメージが僕の中にはありますね。 お疲れさまでした。
4 荒木章太郎さん 「錆びた下弦の月夜」 5/4
前作よりも抽象度が上がっています。本作のようなところが本領なのかもしれないです。
まずは月の「下弦」と楽器の「弦」をダブルイメージさせています。雰囲気からして生ギターでしょうね。似たような趣向として「錆びた」~「寂れた」「爪弾く」~「つまびらか」「動機」~「動悸」の繋がりも挙げられそうです。音を描きたかった気もしますし、何か幻想的な光景も浮かんできそうです。
意味は取れませんでした。ただ、この詩で「パンダのぬいぐるみ」が出て来たのは、多少の違和感をもって驚きました。荒木さんの方で何か事情があったのだろうと推測はしています。パンダのイメージがこの詩の硬質とブレンドするかどうか、が評価のカギとなるようです。佳作半歩前で。
5 詩詠犬さん 「雨音」 5/5
この詩は「例えようもない」が思考の主軸になっているわけですが、「みんなも同じような気持ち」―おそらくその通りでしょう。それを受けての4蓮です。ここでわずかに世界が動き広がりを見せますが、基本的に、どうも袋小路というか、これ以上発展できない気がしてしまう。サラリと書いた一般性で終わりそう。そこがツライところに思うわけです。そういった場合、この詩に即して書くと、例えば雨音の擬音を入れるとか、雨だれの小景を入れてみるとか。具象性を狙ったほうがいいと思う。ただ、それにも新たな問題が生じて、そういった個別性は、この詩の主旨である「みんなも同じような気持ち」とは少し距離ができてしまう点ですね。そこをどうするかなんです。まあ、これはこれとして、そういった課題を次回作にどう活かすか、という事で―。前作がウイットに富んだものだっただけに今回は少しツライですかな? 佳作一歩半前で。
6 相野零次さん 「歩く男」 5/5
今回が2作目で趣向、作風共に変えてきています。なかなか面白い詩です。興味深いという意味です。これは実際歩いていると見てもいいし、人生の比喩と受け取ってもいい。「国語と算数の教科書」がちょっと笑えます。何か作者氏個人の来歴があるのかもしれない。まず語るべきは歩く男の懸命さ、真摯さ、気持ちの良さでしょう。これは特筆できます。この詩の主人公は歩く男ですが、もう一人の主人公、この詩の発話者にも僕は興味があります。初見読みでは普通に読んでいましたが、後半(これは俯瞰的、鳥瞰的意識をもって読んだほうがよさそうだ)と思いました。するともう一人の主人公も見えて来る気がします。正確には”一人を含む我々“という構図です。その視線は遥か高いところにある。たとえば神々を想像してもいい。曰く、陽の神、雨の神、風の神、etc。それらを統括する自然神でもいい。カメラ目線で言うと、アップから始まってだんだん視野を遠くにしていくような感覚ですね。それと仄かにストーリー性もあります。なかなかです。ただ、まだ二度目なので佳作二歩前からでお願いします。
7 ベルさん 「カラフル」 5/6
ああ! なんと言いますか、こういう美しい心に溢れた詩を読むのは気持ちのいいものです。
初連でささやかな思いから始まり、続く連での感謝と奉仕の精神です。現実世界はこんな風にかっこよくはいかないのですが、こういうものを目指したい情緒というものを人間が本来的に持っているのも又事実です。この詩はそういった部分を掬い取っているのです。4連などはそういった現実も踏まえながら地に足をつけた堅実ぶりを詩化しています。この世界から去って行く人々がこんな風に願えるならば、地球はまだまだカラフルであり続けるでしょう。この詩は内容も美しいが、言葉の扱い方も美しいです。どこを読んでも、優しさ、気高さ、説得力があります。詩とは全方位をカバーできるものではありません。この詩はひとつの方向から人間の生を照らしているのがわかります。そして僕はそれでいいと思っています。そこに美しさがあれば充分です。従っての上席佳作となります。末永く保管されるべき作品です。
8 静間 安夫さん 「モノクロ」 5/6
カラーが当たり前の現代映像文化にあって、根強く残るモノクロ、敢えて逆行してモノクロを使う人々の意志、創作意欲といったことを多角的に描いています。相変らず筆力は圧倒的ですね。
始まりを身近なところから話を起こしているのがいいですね。賛成しながら一番面白く読めるのは「報道・肖像写真」の部分でしょうか。個人的には肖像は白黒だと、渋いというか、その人の内面のようなものが、より深彫りされるように感じます。かえって「非日常性の雰囲気がある」は賛成できます。「ゲルニカ」がモノクロとは知りませんでした。さらに灰色に触れ、水墨画を例に出しているのはユニークですね。音楽と文学の喩えはちょっとご愛敬か?
全体の感想としては、少し評論文を読んでいるような感じがつきまといますね。静間さんもそれに気づかれて、ダイアログ形式を採ったと思います。これもアイデアと取るか“いかにも”感と取るか、は意見が分かれそうです。いつも通り、筆致というか書きぶりは凄いものがあります。
ただ今回は企画性がポイントだったと思います。一生懸命書いてくれて申し訳ないですが、佳作一歩前で。
評のおわりに。
「JOE」
“サンシティ”からのポストカードが
あなたの手許に届いた
砂漠のようなその地
故郷の人々は涸れてしまった
窓辺で空の不思議を見つめる
毎日がいつも初めてのように
「私をジョーと呼んでくれる人は
この世にもう誰もいない
そう呼んでくれる人は
もう誰もいない」
あなたはある境界を越えて
全てを理解した そしてもう何も考えないこと
究極とは常にシンプルなものだとあなたの目に映る
この世界の物狂いを見つめ
若者はその答えに泣き叫ぶが
老人はそうするほどおろかではない
終わりが近づくにつれ
あなたはこのうらぶれた部屋から殆ど出ることがない
ただ かつて愛した場所 日がな一日散歩したことを憶えている
何もせずゆったりと寛いで
窓辺にかかる月を見つめる
配達されてくる食事を摂り
穏やかに笑ってこう言う
「私をジョーと呼んでくれる人は
この世にもう誰もいない
そう呼んでくれる人は
もう誰もいない」
*
これは自分の作品ではありません。
「JOE」という僕の大好きなジャズバラードの
歌詞を遊び半分、暇にまかせて和訳したものです。
ただ自分の都合のいいようにアレンジはしています。
この曲を初めて聴いたのは高校一年生の時でした。
もう古い話です。
僕は歌うでしょう、この歌を。
いつか どこかで―。
では、また。