連作三編 清らかな猫の唄 巣本趣味
Ⅰ清らかな猫の歌
ああ 三年ぶりの頭の爽快
傘を差さない彼女の夢のみが僕を捕らえるけれど
穴のない血管と青空と
正しい脈拍があるからぼくは大丈夫
ぼくは精神科病棟を横切って
新しい神保町へ
勢いあまって新刊書にすら目が眩み
それすら最後の頁で値段を確認してしまう自分が
愉快で笑う
いまだ優先席で身体を揺すられて
客観的速読法に思いを馳せるとき
ぼくは脳内を流れゆくすべての雲を興味深く見送り
澄み渡る空の存在をたしかめる
円本の匂いに酔い
頁に残された栞紐の跡をなぞる
家に帰ると 僕を見た母が泪を流して歓喜した
顔が白い!
彼女がそのさらさらな髪を弄ぶときに現れる
黒猫のような愛しい影を忘れよう
僕は安心してザジデンを呷った
Ⅱ清らかな猫の訡
音楽を捨てていた汚い目の猫がよみがえった
なにもない道をゆく
土を被った愚かな感熱紙をぐしゃりと踏みつけ
袋にぎしぎしと詰まった賢い椿のにおいを無視し
ようやく彼は美術館についた
風景のなかの眼が 彼の攻擊性を見抜いてなまなましく囁いた
遠路おつかれさまです
彼と彼によく似た 然しきれいな目をもつ猫との思い出!
鑢のようなそれらの一つ一つを反芻しながら選り分けて
彼は甲高く嘔吐する
凡ゆる肉體の苦みを默想しながら その鮮やかな矛盾を視姦して
彼は何時迄も螺旋から降りられない
Ⅲ清らかな猫の唄
廣松渉の哲学書のことを考えていた。
認識論についても 現象学についても僕はなにも知らないものだから 放り出してしまったあの哲学書。
僕がはじめて読んだ哲学書。
三年前 僕の脳内に霧が立ち込めてからというもの 僕の精神や身体 若しかすると情緒までもがその能力を失ったようだった。三年前にちゃんと寝ていれば あの哲学書も読めたはずだった。
──雪だ。なあ、ジャンプ買いに行こうか。
僕はお父さんにしたがった。
柿の木を通り過ぎた。さびしそうな柿の木は いま十八歳の僕よりはるかに若々しく見えた。
猫の足跡ひとつない雪の絨毯が駐車場に煌めいていた。雪は街灯のやさしい光を反射して 僕を慰めてくれていた。
轟音とともに稲妻が地面に墜落し 雪が烈しく炛った。その刹那 僕はいつかの朝のマクドナルドを思い出した。
客はみな生気を失った山羊のようにハンバーガーを頬張っている。
──お父さん、みんな悩んでいるんだね。
──それは違う。君が悩んでいるんだ。
今日は雷雪だった。
──お父さん、いまからギターを始めるのなんてもう遅いよね。
──何を言う。君にはまだギターと触れ合う時間がたくさんあるじゃないか。
そうかもしれない、と思った。
清らかな目で思い起こせば、あの柿の木も僕ほど若くは思われなかった。
振り向くとそこにはただの雪があった。その上に僕の足跡は確かに連なっていた。
僕は哲学書の読み方について熟考しはじめた。
──お父さん、哲学書に対して素読的アプローチは有効かな?
──え? どういう意味?
僕たちの目の前をただの猫が過ぎ去ってからしばらくして お父さんがつぶやいた。
──外に出てよかった。