ある革命家へのオマージュ(あるいは、風変わりな身の上話) 静間安夫
見えない敵が密林の中でじわじわと輪を狭めてきたとき、それでもあなたは「無益な人殺しはしない」と言って捕虜を解放してやりました。自分がどこにいるか教えるようなものなのに…そして、逆に自分が政府軍に捕えられ、長いゲリラ闘争に自ら終止符を打ちました。しかし、青春のさ中で詩人になるべきか、それとも革命家になるべきか、選択に苦悩したあなたにとってこれほど相応しいエピソードはない、とわたしは思います。
なぜなら、あなたにとって、革命とは単に社会の変革であるにとどまらず、精神を隷属状態から解放することも意味していたからです。だから、それまでの革命闘争のあらゆる瞬間で、あなたは如何なる先入観からも偏見からも距離を保ち、あくまで自分の信念に従って判断したのでした。その判断はときに一切の妥協を許さなかったゆえに、やがてあなたは孤立し、長年の盟友と袂を分かつ結果を招いたのです。しかし、まさにその行為こそ、精神の自由を追い求める詩人の魂の為せる技ではなかったでしょうか?
あなたが銃殺されて既に五十年余。その間、圧制からの解放運動が世界の各地で起きるたびごとに、その変革は「春」に例えられ、そして必ずあなたを「イコン」に選んできたのです。学生運動に参加したわたしにとっても、あなたは大義に殉じた英雄でした。そのころ、既に退潮期にさしかかっていたとはいえ、学生運動の熱気は未だ冷めやらず、わたしたちは学費値上げ反対のストライキを呼びかけたり、ベトナム戦争反対のアジ演説をぶったりと、学業そっちのけで駆け回っていたものです。その当時、既成の左翼に飽き足らないわたしたちは、行きつけの安酒場にたむろしながら、夜を徹して「人間の顔をした社会主義」について語り合い、あなたに熱いオマージュを捧げたのです。
ところが、時代の変化は予想以上に早いものでした。過激派による連続爆破事件が潮の変わり目となり、学生運動は、穏健なグループまでひっくるめて、世間の厳しい批判にさらされたのです。わたしたちのメンバーも櫛の歯が欠けるように一人、また一人と抜けて行きました。「もう、ここらへんで足を洗わないとな…」そんなセリフを残して去っていく仲間に対して、わたしは釈然としない思いに囚われたものです。「『足を洗う』だって?俺たちは何も悪いことはしちゃいない。それに、そんなに簡単に自分の信念を捨てられるものだろうか?」
実際、つい昨日まで「資本主義の奴隷になんかなってたまるか!」などと威勢のいいセリフを口にしていた連中に限って、ちゃっかり一流企業に就職して行きました。その変わり身の早さといったら呆れるほどです。それに対して、わたしは自分がやってきたことに対するこだわりをどうしても捨てられませんでした。ほそぼそとガリ版で刷ったビラをキャンパスの広場で配りながら、反戦デモへの参加を呼びかけている孤独なわたしの姿は、周囲からはさぞ滑稽に見えたことでしょう。
結局、大学を中退したわたしは、食いつなぐために職を転々とせざるを得ませんでした。もっとも、一つの会社に落ち着いて、昇給昇格を目指すつもりもなかったのですが、それにしても定職のないつらさは想像を超えていたのです。恋人も、そんな生活を続けるわたしに愛想を尽かして去って行きました。これにはとことん参りました。がらんとした部屋に一人取り残されたとき、もはや革命の夢も愛も詩も何もかも失われた、そう観念したのです。
吹きっさらしになった心を抱え、自暴自棄になっていくわたしを見かねて、今はもうすっかりエリートサラリーマンになっていた昔の仲間が、就職先を世話しようと申し出てくれました。ただし、次のように釘を刺すことも忘れずに-
「おまえも、この機会にもっと大人になれよ。精神分析学者の誰それによると『未成熟な人間は、理想のために高貴な死を選ぼうとする』そうだ。おまえも大義だの何だの言って格好つけてるうちに『高貴な死』どころか、危うく『野たれ死に』しかけたわけだろう?これからはカタギに戻って普通のサラリーマンになってくれ。それができないようなら、この話はナシだ」
何を言われても、屈辱を耐え忍んで受け入れました。今、この友人の申し出を拒否すれば、本当にこの社会からドロップアウトしてしまいそうで、怖かったのです。
それから、わたしの長い長い砂を噛むようなサラリーマン生活が始まりました。厳しい上下関係が支配する階級社会の現状は、聞くだけではなく、やはり体験してみないとわからないものです。例えば、上司から部下に対する露骨な精神的暴力は日常茶飯事であり、これに加えて、社員同士の足の引っ張り合い、根拠のない誹謗中傷、女子社員への嫌がらせ、果ては取引先との癒着、不公平なリストラに至るまで、ストレスを引き起こすネタには際限がありません。わたしなどは、既にして出世する意欲もありませんから、ただ小心翼翼と日々をきりぬければいいわけですが、家族持ちの社員であればそうはいきません。厳しい競争社会の中で地位を上げて収入を増やさなければならないのです。ところが、まさにこうした社員との出会いが、わたしのサラリーマン生活の転機となったのです。
あれは、入社してもう二十年近くたったときのこと、その年の四月に課長として着任し、新たにわたしの上司になった人は一流大学の卒業生、将来を嘱望される人材で、私生活でも大学の同窓生と結婚したばかり、まさに順風満帆のときと見えたのです。しかし、サラリーマンの世界とは何かとうまくいかない事情が持ち上がるものです。その課長の上司に当たる部長が、学歴で上回る課長のことが気に入らず、何かにつけて嫌がらせを始めたのです。
この課長は育ちの良さを感じさせる人で、温厚かつ実直、その上、傲慢なところはなく、わたしのような十歳も年上のお荷物の社員にも、敬意を持って丁寧に接してくれました。ただ、少しばかり素直すぎ、まだまだ人を信じやすいところがあったので、そこを陰険な部長につけこまれたわけです。
その朝も週初めのミーティングの席で、部長が、あるプロジェクトの進捗が遅い、と課長をなじり始めたのです。それもわたしたち平社員のいる前で。そのプロジェクトは、課長の指示のもと、わたしも携わっていましたから仕事内容はよくわかったのです。率直に言って部長の叱責は的外れもいいところで、しかも、進捗が遅くなったのは、部長がおそらく意図的に、課長をはじめわたしたちに必要な情報を与えていなかったからでした。
それにもかかわらず、今わたしの目の前で課長はじっと暴言に耐えているのです。確かにその人は立場的には上司ですが、まだまだ青年の初々しさを残していて、その分、いかにも頼りなげで辛そうで今にもポキンと折れてしまいそうです。
まさにその瞬間です。人生の後輩が不当な扱いを受けているのを、もはや見過ごしにはできません。わたしの心の中に数十年にわたって眠っていた「不発弾」が爆発したのです-学生運動のときの信念がよみがえったのです。相手が部長だろうが何だろうが関係ありません。
「もういいかげんにしたらどうですか!プロジェクトの遂行にとって必要な情報を部下に迅速に共有させることこそ、部長の責任じゃないですか?課長には何も責められるようなところはないですよ!」
「なんだ…おまえ…お荷物のくせして…何を偉そうなこと言ってんだ…黙ってろ!」
「いいえ、黙りません!みんなで一つの仕事を心を合わせてやるんだから、メンバーの立場は平等なはずだし、発言も自由であるべきです!」
わたしの思いがけない発言に不意打ちをくらって、しどろもどろになりながらも、部長が何とか反撃にうってでようとする、その前に
「とにかくプロジェクトが遅れているのは確かなのだから、課内で早急に議論して対処方法を考えましょう!」
と課長がその場を引き取りました。どうやら元気を取り戻してくれたようです。
その晩のことです。終業後、課長が一杯やりませんか?とわたしを誘ってくれました。
「今日はありがとうございました。わたし自身、部長になんだかんだいわれて内心だいぶ動揺していたので、あのとき○○さんに助け舟を出していただいて、ようやく落ち着くことができました。これからも、よろしくお願いします」
「いや、大したことしてません。それより、課長こそ毎日本当にお疲れ様です。何事にも全力で取り組んでおられる。その上、わたしみたいな役立たずのめんどうまで見て下さって、頭が下がります」
「○○さん、ご自分が役立たずって思ってるんだったら、それは誤解ですよ!うちの課の若いメンバーがみんな言ってます。○○さんがいてくれると、その場の風通しがよくなるみたいだ、とか、不思議とギスギスした雰囲気がやわらかくなる、とか。あと○○さんには、きっと自分たちが知らない、いろいろな人生経験があって、それを肥やしにしているから大抵のことには驚かず、いつも落ち着いていられるんだとか。要は○○さんは、うちの課がバラバラにならないようにまとめる接着剤であり、重石なんですよ。それにしても、あの『メンバーは平等で自由』って言葉、感激しました!」
課長のその話を聞いて正直びっくりしました。まさか、そんなふうに見られていたとは…。自分ではただただ臆病に目立たないように生きてきたつもりなのに。ひょっとして出世とかに全くこだわらず、あくせくせずに、なべて「柳に風」と受け流す様子が、却って若い世代の人には新鮮だったのかもしれません。
いずれにせよ、これまでサラリーマン生活を続けてきて初めて居場所を見つけた気がしました。課長からはそれまで以上にいろいろと意見を聞かれるようになり、課内の社員からも様々な相談を受けたり、ときにはプライベートな打ち明け話をされたりもしました。わたしの立場の変化と並行して課としての団結も強くなったような気がします。課長もそれに手応えを感じ、自信がついたようです。やがて会議の席でも部長と堂々と渡り合うようになり、その姿は頼もしく見えました。こうなると部長の嫌がらせも効果ナシです。
早いもので、もうそれから十年以上が経ち、来年でわたしも定年です。あのときの課長は、部長、事業部長と昇進しましたが、謙虚な姿勢は相変わらず。今でもわたしと会うと「あの『メンバーは平等で自由』って言葉、今でも座右の銘にしてます」などと言ってくれます。
わたしは相変わらず平社員のままですが、あのとき課長に自分の存在理由を気づかせてもらってからは、生きがいというほど大仰なものではありませんが、少なくとも充実した気持ちで日々を過ごしてきました。なぜなら、それぞれのメンバーが一つの目標に向けて心を合わせて仕事するグループに加わって、ささやかながらも自分の役割を果たせているからだと思います。
ところで、あの精神分析学者の誰それとかの言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある」には、まだ先があることを最近になって知りました。
「これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」
と続くのだそうです。何かしらわたしの辿った道筋を暗示しているかのようです。
というのは、確かにわたしは、あなたのように鮮烈な人生の軌跡を描くことはできませんでした。それでも、わたしなりに、周りの人々との関わりの中で、誠に小さいものではありますが「理想」に貢献することはできたかもしれません。そのことを報告して、あなたへのオマージュ、いや、わたしの風変わりな身の上話の結びとさせて下さい。(了)