曼珠沙華の記憶 上田一眞
秋のお彼岸を迎えた
その日
手を引かれて
母の生家へ続く道をとぼとぼと歩いた
垰(たお)越えに一陣の風が吹き *1
曼珠沙華の花が波打った
鮮烈な赤を見て
母が囁く
どぎつい色じゃろ
毒をもっちょる花よ
死んだ人の血を吸うたから赤いの
幼い私は薄気味悪くなって
思わず身震いした
*
道の途中
コールタールをたっぷりと塗り込めた
黒い板塀が続く
油がプンと臭う
ああ ここは瘋癲(ふうてん)病院だ
曼珠沙華が咲き揃う中に
屹立する
こころの病を施療する瘋癲病院
私はここを通るのが大の苦手だった
嫌だった
風に運ばれて来る
死人(しびと)が発するような声音(こわね)に
恐怖した
かりかりかり
かりかりかり
くうくうくう
くうくうくう
建屋内から道路まで漏れ出る声
呪詛のようであり
読経のようにも聞こえる
板塀のそばで立ち竦んでいると
曼珠沙華に赤く染まった病者の声が
私の鼓膜を貫き
脳髄の奥底を穿つ
その禍々しさに
悪心で真っ蒼になった
*
あれから五十年の歳月が流れた
いま私は
こころの病と闘い
他の精神病患者とともにいる
渺とした大部屋の中
ベッドの上に正座し 白い壁に向かって
ただただ 発声する者たち
かりかりかり
かりかりかり
くうくうくう
くうくうくう
際限のない繰り返し
意味の喪失
病んだ語り部が虚空に話しかける
人格の統合を欣求(ごんぐ)する
こころが
神仏に救いを求めてもがく
彼らの姿を見ていると
遠い日の瘋癲病院が思い出され
病者らの孤独と絶望が瞼の裏に重なった
*
病室に囲まれた診察室で
白昼夢を見た
黒く変色した曼珠沙華の花が
私のこころを覆い
絡め取ろうとする
イヤイヤをして風に靡く花を手折り
こころの窓より
投げ捨てる
何度も何度も放り投げる
私はいま
過ぎた歳月の質量を思い
寛解を期して
黒い板塀と赤い曼珠沙華の花に
別れを告げる
*1 垰(たお) 元来 山の尾根の窪みを指す
山口県東部(周防)では緩やかな峠を特
に垰「たお」と呼ぶ