MENU
941,476

スレッドNo.4122

感想と評 6/14~6/17 ご投稿分 三浦志郎 6/23

1 上田一眞さん 「曼殊沙華の記憶」 6/15

これは、僕には実話とフィクションが混ざっているように思えました。
曼殊沙華のどぎつい赤と不気味な伝説。近くの病院から聴こえてくる無機質で不気味な声。
けっして心和む風景ではありません。50年後の病院でも昔と同じ発声をするんでしょうかね。
時制がふたつありますが、違和感なく流れ、ストーリー自体も上手く繋がっています。
単純な擬声語にまとわりつく「呪詛」「読経」という言葉。変な褒め方ですが、奇怪さをうまく表現しています。曼殊沙華もいわくの多い花です。転調して最後の章が、詩として注目される所ですね。時制は違えど、中ふたつの章は同じ傾向にあり、両サイドは違うものを持ってきて挟んでいる。
しかも両端は幼い頃と現在の心境を書き分けて詩情あり。これは構成の妙と言っていいでしょう。
最後に色について触れておきます。この場合の赤と黒です。赤は度し難いほど力を発揮すると黒に近づきます。「赤黒い」という言葉があるほどです。この場合の両色は負の親和性をもって地味ながら、この作品を影のように演出しています。 僕はそのことを必要以上に意識しました。暗さが伴うのはモチーフ上、致し方ないことでしょう。甘め佳作を。


2 鯖詰缶太郎さん 「光源」 6/15

「四辻」という言葉が頻繁に出てきます。これは何かを象徴するキーワードと見ます。
3連まで。四辻にまつわる深い隠喩でしょう。さて、それ以降、「本、腹筋」が二度出て来る。ここも重要なのでしょう。想像できるのは己の知性と肉体ということか?抽象的なようでいて、心情告白が多いので、逆にこれは抒情的なものを感じるわけです。そこで考えられるのは「四辻」とは生き方の問題なのではないか、と……。何かを見つけたがっているそのあがきを痛い程感じるわけです。同時にそのことが、この詩の熱量であると思います。一見、この詩は抽象的な衣装をまとっていますが、実は抒情的であると思っています。スタイル上のことですが、4連まで連分けで来て、それ以降、ドバッとかたまってます。連分けして、ほぐしてやった方が見場がいいし統一感も出ますね。暇をみて、やってみてください。甘め佳作で。


3 司 龍之介さん 「水面月」 6/15

このタイトルは「水面に映る月」と解するのが一番妥当な気がします。
あくまで便宜上ですが、分析的仕分けをしてみたいと思います。

A……実際に歩いている場面 (1連、3連、6連)
B……そこから思いを膨らませて、人生として歩いて来た軌跡 (2連、4連、5連)

A、Bがほぼ交互に来ています。異質なものが上手く溶け合って詩の同質になっている。ひとつの世界を築き上げています。”自分への入り方“はサイズから言っても叙景との兼ね合いから言っても、この感じでいいと思います。他者への気づかいもある。言葉にロマンもありますしね。トータルに考えて「適度な」と言った言葉が浮かんで来ます。バランスのことです。最後を飾る幻想性も美しいです。こういうフィーリングをしばらくキープされるといいと思います。いい詩、好きな詩、佳作の詩。


4 荒木章太郎さん 「舟を漕ぐ」 6/15

タイトル「舟を漕ぐ」は言わずと知れた「居眠り」の慣用句です。この詩を現実話として読むには無理がある。これは居眠り時の夢のありようを詩表現したと見るのが至当でしょう。実際に見たつかの間の夢なのか、創作なのか、はともかく措くとして、タイトルの「舟」からイメージして「海岸線~波~潮風~オール~海」が表れ、「漕ぐ」から「自転車~ペダル~オール」が出て来るのはよく考えられています。前半末尾の「る」が4つ、終わりの「る」の2つ。これらは詩にひとつのリズムを与えているようであり、詩のひとつの背景と見ることもできるでしょう。そういう背景だからこそ、中央部の命令的セリフも活きようというものです。異彩を放っています。このあたり意識したとすれば、詩について、細かい所まで目配りが行っていると言えます。一瞬の間に良い夢。幸福な夢を見た、そんな気がします。佳作を。


5 まるまるさん 「死んじゃうなんてイヤだ」 6/17

タイトルに見るお子さんの叫び。これを契機として死とは何か?死ぬまでに何を成すべきか?
まるまるさんが、母親として、大人として考える。これは大人の詩です。
考えを自己の子どもの頃から掘り起こしている。6連では子どもへの責任感を意識する。まじめですね。だから一生懸命考えている。二つの要約が考えられます。前半に見る過去の反省と、それを踏まえての「見つかった課題」以降の将来ですね。「反省と展望」―ここには思考体系の正道があります。やはり今後でしょうね。後者をまるまるさんも力を込めて書いているのがわかるし、お子さんにも伝えるべきでありましょう。ここでは自己と同時に他者との関りも大きく取り上げられています。そこも重要でしょうね。「長男にはまだ難しそうだな」―ある時期が来たら、極論すれば、この詩を読ませるのが手っ取り早いんですが、そういうのって気恥ずかしいですよね。言わず語らずのうちに自然と身に付くものではないでしょうか。これはお子さんというよりも、“まるまる”、まるまるさんの詩ですね。 佳作を。


6 静間安夫さん 「ヴィランの言い分」 6/17

ヴィラン=悪党のことだそうです。ところで―間違ったら、ごめんなさいですが―これは全くフィクションという気がしました。だからこそ、よく書けている、とも言えるのですが。二人の人物が登場します。あの男(人民委員会議長 VL)と「俺」です。機能集団にはよくあることですが、頭目は代表ではあるが、やや象徴性を持つ。実務はナンバー2が受け持つ。便宜上、彼らを①・②と表記します。
特に日本史で見ると時の政権は殆どがこの式です。真っ先にイメージしたのは僕の場合、新選組なんですが、あそこは①と②は、心情的にはまずまず最後まで友好的だった。ところが、この詩のケースは違う。かなりの考え方の違い、確執、いや、それ以上のものがあった。図式的には……、

①  エリート、教養あり。理論派?革命家だが、やや穏健も含むか?
②  平民出身の成り上がり。教養なし。悪達者。手段選ばず。急進分子

こういったキャラでしょう。まあ、①が死んで②はやりたい放題になるでしょう。推進するのは独裁政治を通り越して、密偵政治、恐怖政治でしょう。こうである限り②は畳(ベッド?)では死なないでしょうね。①もそうだけど、②は絵に描いたような悪党ぶりです。理想も良心もないですね。武闘派です。
本作をフィクションと勝手に推測して書かせて頂くと、―ちょっとヘンな言い方ですが―②にしては刑が甘すぎる気がします。本来、極刑でしょうね。それと、①の死に方を、もうひとひねりさせて、死因不明として、実は②が手下を雇ってやらせた、というのもいいかもしれない。ちょっと物騒な評を書きました。すいません。これ、評価は割愛させてください。

アフターアワーズ。
フィクションとして話をしてきましたが、これ、実話基づき、だとすると、けっこう恥ずかしいんですが、ま、いっか! 密偵政治というので思い出すのは鎌倉時代末期の長崎高資と外国では―僕はよく知らないんですが―ナポレオン時代にジョゼフ・フーシェという男がいて大変過酷な政治力を発揮したそうです。でも、この男、紆余曲折があったが、ちゃんとベッドで死んでますね。もうひとつ余談。日本の警察制度を作った薩摩の川路利良はこのフーシェに範を採ったそうだから、なんか微妙なものですね。


7 晶子さん 「帰っていく者 向かっていく者」 6/17

やや久しぶりでした。健在で何よりです。
この詩は二つの対比の中にあります。1連と2連です。タイトルにも近づくのですが、いわば、消えていくもの、始めるもの。で、3連では人・文明あるいは去るもの・生まれるもの、何もかもが空に消えてゆく。このあたり、神羅万象が持つ終末思想のようなものを感じました。終連が最も素晴らしく、余韻を残し、何かを訴えている気がします。それは希望とか発展とかではなく「孤独」としたことです。あるいは3連と連動しているのかもしれない。ここに、この詩の底部での思想を見る気がしますし、両方の連は受け止め方、解釈の上で、かなりの揺れ幅、余地を残しているように思います。佳作になります。

アフターアワーズ。
晶子さんはもちろん女性なのですが、最近の傾向を見ると、硬質、骨太、彫りが深い、すなわち男性的なタッチにシフトしつつあると感じています。大変興味深いことで、バリエーションとしてあっていいと思っています。今後も見ていきたいと思います。


8 人と庸さん 「きぼうがはいっています」 6/17 初めてのかたなので今回は感想のみ書かせて頂きます。

よろしくお願い致します。ペンネームが面白いですね。よかったら由来をお聞かせください。
すでに数編書いているかたで、既存作を読ませて頂きましたが、今回は少し、モチーフ、作風変えているようです。バリエーションが取れる人かもしれません。しかも今回、かなりユニーク、面白いです。アイデア賞。まず意表を衝いた会話体で始まります。
「そうか これがきぼうか」―この生真面目過ぎるセリフがむしろ笑えますね。きぼうの種類も様子も上手く書き分けて読ませます。「きぼう」の部分は全て1行置きなのもセンスを感じます。自分の今までに思いを致す部分もある。そして最後の2連ですが、せっかく面白い詩なんで、最後もそれを活かさない手はないんです。冒頭セリフの再来は始めに戻る感じで、あっていいでしょう。
けれど最終は何かオチめいたもので終わりたい気はするのです。また書いてみてください。


9 相野零次さん 「生き方」 6/17

これは宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神を受け継ぎ現代に蘇らせた、とも言うべきか!
大変失礼な言い方をすれば、読み手が「きれいごとだよ」で片付けることはたやすいのです。
いっぽう、詩のひとつの使命として人間を描くということがあるとすれば、一筋縄ではいかない人間を描くには表裏を書かざるを得ない。案外、詩は裏を書く場合も多い。ですが、こういう表もあるということです。そして、こういった理想への願望も人間は本来的に持って真摯に共鳴できるのも事実です。生き方論や人間学は全て表側を目指して書かれている。詩の機能も同じでしょう。この詩はその部分を照らしている、ということです。いわば性善説に立って、この詩は書かれている、そこを見ておきたいと考えています。実際、普段から考え願い、心の訓練をしていないと、技法的にもこうサラサラとは書けないと思います。やはり核になるのは3~4連でしょう。他者、他事との関係において、自己を実現してゆくことが強調されているのがわかります。一方からの反論や技術論は、ひとまず措くとして、これも詩の役割である、と認識して佳作と致します。



評のおわりに。

先日、ある詩の研究会に行って来ました。此処の同人の秋冬さんも来られてました。その講演者がある詩人の作品を取り上げ、その特色を箇条書的に列挙しました。その中で大変興味深い一項があったので書いてみます。
 
A……省略せずに書きたいことは全部書く。

―というものなんです。これはけっこう―賛否両論含みつつ―興味深い考え方です。
詩法の一般論的には―
① 省略技法をかなりの部分で容認している。 ② 説明調を嫌う(読み手の解釈余地を充分取る)
③ 書き過ぎると、内容上、小説的になりやすい。 ④ 詩の高尚性のようなものをキープする。

Aはそういった①~④の理論からすると特異なんです。少しリスキー(危険)なんです。
現に「MY DEAR」でも、A的なことはわりと指摘の対象になるんです。ただしAを活かす方法がひとつある、と僕は考えています。散文詩として書くことです。ただ、その詩人はAを普通の連分け詩でやっているというのです。逆にそれは御本人にしかできないことかもしれません。かなり著名な人なんです。軽い驚きがありました。それは、僕は俄かには全面賛成しかねるからです。
まあ、詩には数学のように唯一無二の正解がありませんから、良い悪いではなく、その詩人の領域・流儀ではあるわけです。ケースバイケースでもありますし。僕自身、これは隣接する事なので、ちょっと考えてみたいと思っています。それを自分がやるか否か、はまた別問題なんですが―。皆さんも、よかったら、ちょっと考えてみてください。  では、また。

編集・削除(編集済: 2024年06月24日 06:19)

ロケットBBS

Page Top