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スレッドNo.4176

感想と評 6/28~7/1 ご投稿分 三浦志郎 7/7

1 晶子さん 「河原で」 6/28

俗に「河原の石積み」というと、三途の河原で死者が石を積み、それを鬼が崩す、その繰り返しのことを指す場合が多いんですが、その寓話性が含まれるのか、それとも、現実として、たまたまあった石積みをポイントとするのか、おそらく両方と見ています。割合は後者のほうが多いかもしれない。 ヘンな表現ですが、こんな益体もないものに目が行き、そこから世界は広がる。2連などは堂々としていて気高ささえ感じさせます。この詩のメインの主張と見ます。矮小と雄大を同居させながら、「たかが~されど」の境地に至っている気がします。3連は前回お話しした、晶子さん作に隠された“男性性”を見る思いがする。こういう言い回しは僕は大好きですね。ところで、僕が冒頭出した「三途の川」云々は実に、この終連によるところが大きい。そこで、あくまで参考的提案なのですが、5連を最終連にして、前向き広がり感で終わる。して、終連の移動先は?2連の後か、3連の後か、いずれにしても、この最終連は途中連の役割を負ったほうがいいように思いました。お好みに応じてスライドも可ということです。佳作です。


2 秋乃 夕陽さん 「影響」 6/28

うーむ、感想・評価を書くには難しい作品ではあります。
2連目以降を取り上げます。母の実家での話ですね。祖父母がすでに死去されて、その相続が、その子である母と孫である自分(私)に降りて来た。そういった理解であってますよね?
その際、ドラマにもあった「家を売り払って~分割する」―その葛藤で「私」が悩む、といった構図のようです。詩の中心部は3、4連にありそうです。非常に揺れ動いているさまが活写されています。
微妙なのは、家を売り払うか否かの決断と思われます。

売り払わない……母を説得して現状通り。あるいは、家を残して「私」はそれでも家を出る?
売り払う……A)それで得た分割金を以って別の家で母子暮らす?又は別々に暮らす?
      B)「私も相続を放棄して」だと、相続して得た分割金も放棄して家を出る?
        これは「私」にとってキツイ気がする。

なんだか、よくわからなくなって来ました(苦笑)。プライベートなこともあるので、すみませんが、評価は割愛させて頂きます。


3 上田一眞さん 「ヤマドリ会遇」 6/29

1章はやはりヤマドリの赤と尾の長さが引き立っています。緑の中の赤のコントラストが濃く印象されます。写真で見ると、胸や羽の部分はなかなか複雑な様子をした赤ですね。あまり出会わない鳥とのことなので、この会遇は幸運だったことでしょう。また、柿本人麻呂の歌を載せたのが目を惹き、情趣をそそられます。
2章はガラリと変わって訴訟のエピソード。たしか以前の作品にも登場しました。「ヘロヘロ」と(3章の)「ズタボロ」は詩の表現としては如何なものでしょうか?この詩のトーンとは合わないでしょうね。続く3章はそういった困難を迎えた中での、ひと時の安らぎ、癒しが描かれます。「忙中、閑あり」といったところでしょうか。ヤマドリと共に自然の色と音も紹介されています。
最後に構成について触れておきます。この3部構成で流れを考えると、僕の場合、どうしても2章に違和感を覚えてしまうのです。次に技術論として書くと、3章は明らかに2章の影響を受け、引き継いでいる部分もあるんです。従って、僕の意見としては、2章を極端にコンパクトにして、3章に収納できないか、ということなんです。僕の結論意見としては2章構成です。曰く「いろいろあったけど、今は自然によって癒されている。その力を以って今後に当たりたい」みたいな……。そうやってトーンを統一はしておきたい、そんな風に思うんです。佳作一歩前で。


4 詩詠犬さん 「今日」 6/29

この詩はちょっと不思議な詩で、リアルな詩として読むと、2連・3連のようなことはあり得ないんです。ただし、それ以降はリアル過ぎるほどリアルなわけです。この対比をどう考えるか、なんです。
たとえば、夢の中の出来事?ならば、あり得ます。この詩はスーッと通って行きます。
あるいは、生活や人生の寓話としても解釈可能ですね。こちらのほうがいいかもしれない。
現に前半の3連部分は過去の自分の思い悩みが象徴されています。具象ではなく抽象。
「ところで」以降、リアルさを含むかな? 5連は気持ちが上向いていくのがわかります。
結果としての現在地的フィナーレが来ます。
最後に終連について触れてみます。「わたしが 今 戻ってきた」はいろんな意味で興味深い言葉ですね。過去には不明な自分もいたけれど、迷いという時間から戻って来られた。結果としての現在=「今日」ということでしょう。何かがふっ切れたのかもしれません。
前作はちょっと所在なげだったんですが、今回は芯が見えてきました。甘め佳作を。


5 静間安夫さん 「蚕」 7/1

この詩は蚕について、結構深く調べないと、読み切れない気がしました。時間が許す範囲で調べました。
まず蚕が持っている相反するイメージがあるでしょう。「悲しい~気高い」「可愛い~気持悪い」
加えて、野生では生きられない、人間の手がないと生きられない。まあ、その事が人間が利用する糸口になっているのでしょうが……。作品はこの事情を、端的に表現します。曰く「類まれな才能」「不運の始まり」。ここにも相反があります。そして、この詩は徹底して「蚕」側―その立場に拠って書かれている点にあります。悲しみ、労り、憐憫が基調になります。そういった中で、一歩踏み込んだ蚕の属性も綴られるわけです。「引き合わないこと、夥しい」中で、美しい産物を成す。ここに、この詩の肝があるでしょう。6連が最も言いたい主張に思います。さて、もうひとつ。詩人のほうです。糸と言葉の違いこそあれ、紡ぐといった感覚は似ています。どちらも美しいものを生み出します。似ています。詩人は報われるところが少ない。これも事実でしょう。もちろん違う部分もあるのですが、この詩の主旨の流れの中での詩人像は適切であると見ています。佳作です。


6 ベルさん 「てるてる坊主」 7/1

これは二人の関係への賛歌と読んで差し支えないでしょう。 印象的な冒頭2行です。
それに続くは、もたらされるものへの手のひらと水の隠喩。2連は(僕の勝手な解釈では)、
「喉元過ぎれば……」といった感覚。どちらも人間共通に持つ性であり属性でしょう。それを充分踏まえながらも、3連「それでも」で覆していく。ここから賛歌は始まっていく。4連ではちょっと具体性に触れ、感謝から返礼といった心の動きも表しているように思う。あとは全てが美しい言葉花束です。終行「貴方の命を祈る」―は「守る」とか「思う」ではなく「祈る」。これを「命」と繋げたことの美しさに、僕も手を打って喜びたいです。最後にタイトルに触れます。ちょっと別の話になりますが、
詩とは案外、時間軸にも左右されるもので、僕の場合、既存作をメンテすることがあります。(あの時はこう書いたけど、今の気分では、こっちのほうがいいな)みたいに、まあ、部品交換程度のことなんですね。まあ、これには賛否両論あるでしょうが、この詩のタイトルにも、そんな要素がありそうです。今はこのかたち。月日が経って、ちょっとメンテしてみる。今は新作。しかし、これもいつかは既存作になるでしょう。新作に目が行きがちですが、既存作は財産。育てていくことに似ています。佳作です。



評のおわりに。

ベルさん「てるてる坊主」―この詩の3・5・6連を読んでいると、山下達郎の既存曲「REBORN」の美しい世界観を思ってしまう。
まあ、いろいろ読んでいると、時に詩と音楽が出会うことがある。これは評者の楽しみのひとつなんです。 では、また。

編集・削除(編集済: 2024年07月07日 18:13)

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