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スレッドNo.4183

感想と評 6/25~27ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。6/25~27ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●喜太郎さん「恋文(中原中也に憧れて)」
 喜太郎さん、こんにちは。この詩は高校生(それとも中学生?)の恋愛と詩への目覚めを描いた作品ですね。好きになった人が読んだり聴いたりしているというだけで、それまでまったく興味のなかった本や音楽に触れるということはありますね。そして、時にはその恋愛自体が過去のものになった後でも、そうやって出会った芸術との関係が長く続いていくこともあるのだと思います。この作品では、そんなきっかけで詩を読み始めた「僕」が、読むだけでなく詩作まで始めてしまうという展開が面白かったです。本作のタイトルに(中原中也に憧れて)とあるのは、「僕」にとって「君」への思いよりも中也への関心がメインに描かれているということを暗示しているのかもしれません。
 中也の詩の中でも最も有名なものの一つ「サーカス」が引用されているのも、初めて詩を読む高校生の描写として自然ですね。その中でも特に有名なオノマトペが引用されていますが、原文の「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」ではなく「ゆあーん ゆよーん はやゆあーん」となっているのは、意図的なものかと思いましたが、よく分かりません。意図が明確に伝わらなくて、単なる誤記と思われてしまうともったいないと思いました。
 ところで、「サーカス」の全文を読み返してみると、ここでぶらんこに喩えられている心の揺れは、青春の恋心といった甘酸っぱいものよりもっと暗くシリアスなものを表しているように思い、そこに微妙な違和感を覚えました。もちろん、「僕」は詩の初心者ですし、恋している時にはすべてを自分の恋心に引き寄せて読んでしまう、と考えれば、そういった「誤読」もありなのかもしれませんが……。評価は佳作半歩前となります。

●桜塚ひささん「無差別殺人事件調書 ―ある大量無差別殺人犯の声」
 桜塚さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
 この作品を読んで思い浮かべたのは、2008年に秋葉原で起こった無差別殺傷事件でした。犯人が用いたのが、詩でも言及されている「ダガーナイフ」であり、死刑判決が下ったこと、インターネット掲示板にのめり込んでいたことなども共通しています。
 けれども、そのような現実の事件とのつながりがどうであっても、この作品で描かれているのは、社会から阻害された孤独な魂ですね。それを「声がない」人間として描いているのが印象的でした。声を奪われた人間が事件を起こし、その抑圧されてきた「声」を調書の形で表現する――タイトルに「声」とあるのも意味深長です。
 最終連の「彼は 無罪だ」は賛否両論あるかもしれません。けれども「彼が有罪なら 僕も有罪だ」はとても良く理解できます。罪は罪です。通りすがりの人々を無差別に殺傷する行為自体は受け入れられません。けれども一人の人間を凶悪犯罪にまで追い詰めた社会の責任もまた、問われなければならないのだと思います。
 社会の闇に切り込む硬派な詩をありがとうございました。また書いてみてください。

●理蝶さん「ぼくが死んだ朝」
 理蝶さん、こんにちは。誰しも自分が死ぬ日について思い巡らしたことが一度や二度はあるのではないかと思うのですが、この詩はそんな主題を扱っている作品ですね。「ぼく」は自分が死ぬ日のことをいろいろと思い浮かべるのですが、特に前半は、自分の死が世界の歩みに影響を与えることはほとんどないことを醒めたリアリズムで歌っていきます。
 途中の「でもね」(一語で一連にしているのも良いですね)から、そんな「ぼく」の死を悼んでくれる数少ない(もしかしたらただ一人の)相手に向けて語りかける内容に変わります。しかし、ここでも「ぼく」の訴えはあくまで控えめで、それが却って心を打ちます。「どうか/この世界を少しも変えることのない/ひそやかな涙を 流してくれないか」の連は特に好きでした。
 感傷に溺れることなく、抑制された叙情が全篇に漂っていて素晴らしいです。評価は佳作です。

●森山 遼さん「三島由紀夫と全共闘の自己否定」
 森山さん、こんにちは。この詩は三島由紀夫、全共闘、赤塚不二夫らが活動した1960年代末から70年代始め(三島の自決は1970年11月25日ですね)の時代を描いた、思想色の濃い作品ですね。これまで担当させていただいた森山さんの詩にはない、新しい作風に感じました。
 この詩の中心は、「しかしその時 彼は 逆に 自己存在のすべてを 完全に 肯定できたのかもしれない」ではないかと思います。(全篇の中で一番長い行でもあります)。つまり自己否定が自己肯定に転化するというパラドックスがある、ということなのでしょう。これについては私も深く同意します。
 ただこの作品を何度か読み直しても、そのような主張を描く背景として、三島と全共闘の時代を選んだ必然性があまり感じられませんでした。まったく政治的に方向性の違う両者と、さらに赤塚不二夫まで登場して、散漫になってしまったというのが正直な感想です。この詩のメインはやはり三島だと感じましたので、彼一人に集中しても良かったかもしれません。どうしても全共闘や赤塚不二夫も含めたければ、この二者についてもう少し詳しく書き込む必要があると思います(作品全体はかなり長いものになってしまうと思いますが)。
 そして、この詩には「私」という語り手が一度だけ登場しますが、この「私」がどういう視点から三島と全共闘の時代を振り返っているのかがはっきりすると、詩全体が引き締まってくると思います。ご一考ください。評価は佳作一歩前です。

●荒木章太郎さん「ぶっこわーす」
 荒木さん、こんにちは。威勢の良いタイトルであり、本文も勢いがある文体ですね。けれどもそのような表面的な威勢の良さと軽い文体とは裏腹に、その下には冷静に現実を見つめる目と、堅実な未来を作っていこうとするポジティブな意志を感じました。
 タイトルの「ぶっこわーす」は小泉純一郎元首相のスローガン「自民党をぶっ壊す」を指しているのだと思います。「30年間冬眠していた」というのは、日本社会の失われた30年を表しているのでしょう。
 語り手である「俺」は「先輩」(小泉氏)が「ぶっこわして」切り開いた道を威勢よく進んできましたが、いつの間にか熱狂の夏は過ぎ、秋になってあたりを見回すと周囲の殺伐とした世界に驚きます。このあたりの心情の変化が、「ロックンロール」から「ブルース・シャンソン・鎮魂歌」という音楽ジャンルの変化によって巧みに表現されています。
 そう考えると、「俺」たちが「ぶっこわして」来たのは、自民党どころか古き良き日本そのものだったのかもしれません。「俺」はその現実に気づいて、それを立て直そうと「リフォーム会社」を立ち上げる……。
 隠喩表現を駆使しつつ、社会に対する批評眼と、未来への希望、そしてユーモアさえ感じられる、読み応えのある作品でした。評価は佳作です。

●温泉郷さん「夕景」
 温泉郷さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
 夕暮れ時の散歩でしょうか。歩きながらふと目にした情景を丁寧に描いた作品ですね。私自身も詩を書くようになってから、身の回りの細かい事物を注意して観察する癖がつきましたが、この詩でも、何気ない日常の一コマがじっくりと描かれています。枯れ葉だと思っていたものが蝶だと分かった時の驚きなど、「私」の心の動きもよく伝わってきます。
 この作品の舞台の右手には公的施設の「庭園」があり、幹線道路を隔てて左手にはビル群のふもとの「緑地」があります。庭園から石垣のところまで出て来た蝶が緑地まで渡っていかずに庭園に引き返してしまう動きは何かを象徴しているのか……。庭園が「手招き」をしているという最終行には、いろいろ想像を刺激する余韻が感じられて良かったです。またの投稿をお待ちしています。

●紫陽花さん「木曜日は海辺のレッスン」
 紫陽花さん、こんにちは。海辺の町でのウクレレレッスン、いいですね。季節を特定できるディテールはありませんでしたが、読んでいてやはり夏を思い浮かべました。丁寧な描写で情景が鮮やかに目に浮かびますし、途中で登場する猫たちに、語り手の自由な心情が映し出されているのも巧みです。特に劇的な展開があるわけではないのですが、この詩は雰囲気で読ませる作品だと思いました。読むだけで心が和んでくる詩ですね。
 私が唯一ひっかかったのは、結末部に出てくる「ラ・クンパルシータ」でした。言わずと知れたアルゼンチンタンゴの名曲(作曲者はウルグアイ人ですが)ですが、哀愁を帯びた曲調といい歌詞と言い、それまでの明るく爽やかな雰囲気とどうしてもミスマッチに感じてしまうのです。かといって、意図的にそのような違和感を与える狙いがあるとも思えませんでした。
 もしかしたら、これは紫陽花さんの実体験に基づく詩で、実際に教室で練習していた曲が「ラ・クンパルシータ」だったのかもしれません。けれどもあえて言わせていただければ、たとえそうだったとしても、私ならここは詩全体の雰囲気にマッチする別の曲に変えてしまうと思います。
 俵万智さんの代表作「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」の短歌の元になった体験では、恋人がいいねと言ってくれたのはサラダではなく、カレー味の鶏の唐揚げだったそうです(ちなみに日付も七月六日ではありませんでした)。でも唐揚げでは歌にならないということでサラダにした結果、多くの共感を呼ぶ有名歌になりました。このように、たとえ実体験に基づいている作品でも、フィクションのフィルターを通すことで、より作品としての磨きがかかることがあると思います。「事実」ではないかもしれないけれども、作者の心の「真実」をより効果的に伝える、それこそが文学だと思うのです。ご一考ください。評価は佳作半歩前となります。



以上、7篇でした。今回も味わい深い詩の数々と出会うことができて感謝しています。暑い日が続きますが、皆さまどうぞご自愛ください。

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