信じる心と愛と孤独 相野零次
孤独
おそろしい言葉
この世で最もおそろしいことかもしれない
真の孤独を受け入れたとき
人は人でなくなる
人は人と繋がっている
どんなときでも
それを忘れちゃいけない
いや忘れることなどできないのだ
受け入れなきゃいけないのだ
人はときに独りでいたくなる
物理的にも
心理的にも
人が人を嫌になることは
よくあることだ
しかしそれはできっこないのだ
一般的な社会生活を送っている限りは
人が人を本当に見捨てるには
ほとんどの事柄を見捨てなければいけない
それは例えば親兄弟にも値する
怖ろしいことだ
心が心底 震える
人が人を愛することを
こんなにも難しくしたのは
誰だろう
誰だっていいのだ
愛というのは
とても大きなものだ
小さな枠に捉えられるものではないのに
人は枠を欲する
例えば恋人であったり
夫婦であったり
親子であったり
ペットであったり
愛を枠で捉えたがる
決して悪いことじゃない
正しいことだ
そうだ問題なのは
そこに幸せを繋げたがることだ
愛があるから
幸せとは限らないし
不幸せともいえない
それは別の事柄
愛は何かと何かを
繋げるものかもしれない
親兄弟を
他人を
男と女を
動物や植物を
その他ありとあらゆるものを
繫いで結びつける
それが愛なのかもしれない
そうだと信じたい
信じることも愛の一種かもしれない
信じることは大事だ
信じる心があれば
人は孤独から救われるような気がする
難しいけど簡単だ
簡単だけど難しい
それが愛
それが信ずる心
今 孤独である人よ
恐れなくて構わない
人は誰だって
いつだって
孤独からは逃れられない
心底愛する恋人がいたとしても
母の愛を一心に受ける子であったとしても
孤独は免れない
そうでなければ
なぜ子供はあんなにも泣くのだ
すぐ目の前に母がいるのに
何かを見失い泣く
伝わらないと泣く
そう伝わらないのだ
愛は確かに何かを繋げるだろう
だがそれを相手に直接伝えるわけではない
都合のいいテレパシーなど存在しない
だから誤解を生む
誤解は孤独を生む
どんな間柄であっても
どうすれば孤独から逃れられるのか
それはやはり信ずることではなかろうか
わかってくれていると
思うからこそ
赤子は泣かないのではなかろうか
笑うのではなかろうか
孤独よ
お前は
信ずることを忘れた
人間の心なのか
ならば愛せよ
誰でもいいのだ
眼の前の自分を愛せよ
他人は自分の心に存在するのだから
鏡を見よ
己の手を見よ
血が流れている
お前は生きているのだ
お前はお前を信ずることはできるのだ
そうして
お前は今
生きているのだ
泣くがいい
泣けずともかまわない
笑えばいい
笑わずともかまわない
今
お前は何を思う?
何かを思い出すであろう
手
それはかつてお前の愛するものと
繫いだ手なのだ
今
お前は誰と手を繫いでいるのだ?
誰とも繫いでいなくとも
お前はお前と手を繫ぐことができる
お前には両手があるのか?
あるのなら簡単だ
五本の指を組み合わせて
握りしめるがいい
それは祈りの形だ
祈り 思い出すがいい
かつて愛する誰かのために
祈ったことを
お前には両手がないのか?
なくても簡単だ
お前は今までの人生で
祈ったことはあるはずだ
母や父のことを想い
祈ったことがあるはずだ
母や父がおらずとも
育ててくれた誰かのために
祈ったことがあるはずだ
今は
自分自身の明日のために祈るがいい
孤独は去っただろうか
一時でもいい
ならばそれでいい
孤独はおそろしいと言った
それは
間違いかもしれない
孤独はいつでも
誰でも持っているのだから
人間は間違える
間違え続ける
間違いの数だけ
正解はある
そこへ辿りつくことができれば……
道すじが見えたなら
孤独でも大丈夫だ
人は一人で生まれない
ならば一人でも死なない
そう信じて
愛に導かれて
孤独を受け入れよう