双葉食堂のおじさん 上田一眞
双葉食堂のよっちゃんとは
いつも一緒に泥んこになって遊んだ
幼馴染だ
*
よっちゃんのお父さん
双葉食堂のおじさんは面白い人で
声帯模写が得意
ぼくが食堂に遊びに行くと
待ってました とばかりに犬の鳴き声で嚇かす
いたずらが大好きな
困ったおとなだ
初夏を迎えたある日
おばさんが
一眞 お昼を食べてお行き
お母ちゃんには電話入れといたから
そして とっておきの「おかめうどん」を
ご馳走してくれた
お店のうどんなど食べたことがないぼくは
美味しくて
美味しくて
夢中になって麺を頬張り
おつゆを啜った
具沢山のうどんを堪能していたところ
突然 鉢植えのゴムの木の葉陰から
ステテコ姿のおじさんが
吠えた
グルルルルル
ウ〜 ワンワンワン
ワン!
蚤の心臓のぼくは
びっくりして丼鉢をひっくり返した
あ~あ いっぱいこぼれた
それに
服もズボンもおつゆでビチョビチョだ
も〜おぉ
お父ちゃん!
珍しくよっちゃんが怒っている
胡麻塩頭のおじさんは
焦りもせず
慌てもせず
悪かったという顔もせず
手拭いを取り出し ぼくに渡して
目で謝った それから
もう一杯「おかめうどん」をつくって
さぁ お食べ …
優しく二杯目を振舞ってくれた
*
雨の日
よっちゃんと食堂内で遊んでいると
支那服を纏った美白麗人が入って来た
何やら言っているが
聞き取れない
片言の日本語で
台湾から来た と言っているようだ
おじさんは支那服を見たとたん
九州まですっ跳んで行きそうな勢いで
脱兎のごとく逃げ出した
その逃げ足の速いこと
速いこと
あっ という間に小糠雨のなか
姿が消えた
幼いぼくには状況が呑み込めていなかったが
長じて 思い返すのに
かの麗人は
港で船乗りを待つ〈湊妻〉ではなかったか?
だとすると
男女の情念の縺れが見え隠れする
艶めいた
おとなの秘めごとと
その修羅場を垣間見ていた…のだ
*
もと船乗りのおじさん
戦前 インド・太平洋各地を航海し
長く 高雄(台湾)〜上海航路の
貨客船のコックだった
声帯模写が達者なのも
言葉が通じない寄港地でモテようと
不純な??動機から覚えたものだ
乗っていた船の模型を自分で組み立て *1
双葉食堂に飾っていた
手先の器用な
おじさん
幼い愛娘よっちゃんとぼくを両側に置き
いつも模型を片手に
航海で体験した出来事を話してくれた
海南島沖
トンキン湾の遠い山並に沈む太陽
この世のものとは思えぬほど美しい
夕暮れに
薄暮に輝く南十字星を捜した
サイゴンの沖合い *2
艀から誤って転落
メコン川河口
眼の白い鱶(フカ)に追いまわされ
危うく餌にされるところだった
セイロン島に向かう貨物船
スコールのなかに突入
乗組員全員が甲板に出て
久々の雨を祝って柄杓で乾杯
そして 素っ裸になって身体を洗った
天然のシャワーだ
逸話は 船乗りの浪漫に溢れ
ぼくの脳内に
流れ星のように降り注いだ
*
その後
おじさんは病に倒れ たびたび喀血した
病状が進行すると
やむを得ず
光・虹ヶ浜にあるサナトリウムに入り
療養を続けた
しかし 悪戦苦闘の末
敢闘空しく天に召されてしまった
〈肺結核〉という
忌わしい死病に侵されていたのだ
どおりで痩せていたし
色が青白かった
ぼくには
死の意味などまるで分からなかったが
真に残念でならなかった
若き日のおじさんの
アラビア半島を巡った放浪譚
なかでもアデン外港モカでの武勇伝など *3
まだまだ多くのことを聞きたかった
ぼくのスーパーヒーロー
双葉食堂のおじさん
可愛いい一人娘を残して
はや冥界の旅人となってしまった
店先の風鈴が鳴り
おじさんが可愛いがっていたカナリアが
今日も
駕籠のなかで啼いている
よい声なんだが
心無しか元気がない
解き放たれて
おじさんの元へ飛んで行け
ぼくはそう願わずにはいられなかった
*1 船の模型作り 船乗りにはこの趣味を持つ
者が多かった
*2 サイゴン 仏領インドシナの旧都 現ホー
チミン(ベトナム)
*3 武勇伝 モカ港で強盗に襲われたが素手で
撃退した(おじさんは琉球拳法を身につけて
いた)