無情の風 上田一眞
とある夏の日 母は早朝
涼しいうちにひと仕事終えようと
山の畑に出かけて行った
一眞 起きなさぁ〜い
家を出るとき
ひと声かけてくれたが
母の声はやや遠く
掠れたように聞こえた
机上にうつ伏せになり
勉強もせずに
うつらうつらしていると
突然
お隣りの駐在さんが家に駆け込んで来た
お母さんは何処に行かれた?
ただならぬ気配
駐在さんの顔面から
汗が吹き出し
切迫した空気が放出されている
*
僕は畑への一本道を急いだ
懸命に走った
お母ちゃん!
激しく胸がざわついて
揺れるこころに不安が降り積る
胸騒ぎの嵐に
眼前が昏くなり
何度も何度も躓いて転ぶ
坂の向うは暗くて長い隧道
そして 母の畑に続く道
畑も 捜したのに
山も 捜したのに
隧道も 捜したのに
たくさんたくさん 捜したのに
母の姿はどこにも無かった
まさか
・・・
*
母は鋼材の下敷きとなり
圧死した
*
戸板で運ばれ帰って来た母
包帯に包まれたあじさい色の顔
血まみれになった
無惨な身体
さぞ苦しかったであろう
僕の手からこぼれ落ちた命の雫
我がこころを沸騰させる圧死
天女に付き添われ
母は天空を駆け上がる
母を追い 駆け上がろうと藻掻いたが
天女に峻拒され
大地に縫い付けられた僕は
空しく仰向けになった
再び聞こえた
母の声
一眞 起きなさぁ〜い
掠れていたが声は刃となって
鋭く僕の胸を貫いた
ここは母が没した
橘坂 *1
無情の色なき風が
吹き荒れ
母の声がこころのうちに谺する
*
僕には
それから向こう一ヵ月の記憶がない
*1 橘坂 防府市富海 旧山陽道にある坂