MENU
945,321

スレッドNo.4305

無情の風  上田一眞

とある夏の日 母は早朝
涼しいうちにひと仕事終えようと
山の畑に出かけて行った 

 一眞 起きなさぁ〜い

家を出るとき
ひと声かけてくれたが
母の声はやや遠く
掠れたように聞こえた

机上にうつ伏せになり
勉強もせずに
うつらうつらしていると
突然
お隣りの駐在さんが家に駆け込んで来た

 お母さんは何処に行かれた?

ただならぬ気配
駐在さんの顔面から
汗が吹き出し
切迫した空気が放出されている



僕は畑への一本道を急いだ
懸命に走った

 お母ちゃん!

激しく胸がざわついて
揺れるこころに不安が降り積る
胸騒ぎの嵐に
眼前が昏くなり
何度も何度も躓いて転ぶ

坂の向うは暗くて長い隧道
そして 母の畑に続く道

 畑も 捜したのに
 山も 捜したのに
 隧道も 捜したのに
 たくさんたくさん 捜したのに
 母の姿はどこにも無かった

 まさか
 ・・・



母は鋼材の下敷きとなり
圧死した



戸板で運ばれ帰って来た母
包帯に包まれたあじさい色の顔
血まみれになった
無惨な身体
さぞ苦しかったであろう

僕の手からこぼれ落ちた命の雫
我がこころを沸騰させる圧死

天女に付き添われ
母は天空を駆け上がる

母を追い 駆け上がろうと藻掻いたが
天女に峻拒され
大地に縫い付けられた僕は
空しく仰向けになった

再び聞こえた
母の声

 一眞 起きなさぁ〜い

掠れていたが声は刃となって
鋭く僕の胸を貫いた

ここは母が没した
橘坂 *1
無情の色なき風が
吹き荒れ
母の声がこころのうちに谺する



僕には
それから向こう一ヵ月の記憶がない




*1 橘坂 防府市富海 旧山陽道にある坂

編集・削除(編集済: 2024年08月23日 18:54)

ロケットBBS

Page Top