評、7/19~7/22、ご投稿分。 島 秀生
ちょっと夏バテですかね。老化ですかね。
集中力が続かなくて、遅くなって、すみませんでした。
●akkoさん「放たれたクワガタ」
そりゃ、ちょっと、様子を見に来たのかもしれませんよ。
元気にしてるのがわかったから消えたんでしょう。
使いではなく、本人そのものだったかも・・・。
という解釈も可能です。
それにしても、そもそもどこから入ってきたのか? どこから入ってきたかわからないところから、また出て行ったのかもしれませんね。飛びますし、登りますからね。そもそも夜行性だし。
それにしても家の中になにかの拍子に蛾が入ってきたりカナブンが入ってきたりは、少なからずの人が経験してるでしょうけど、クワガタが入ってきたという経験は非常にレアですね。
この詩はそのレアなものとの半日体験記という意味で、またその中において、夫からの使いかもしれないという思いも抱いたということで、一つの物語として頂きましょう。秀作を。
こういう興味深い闖入者を飼おうとした時、どうするかというところの2連。そして自然のものは、往々にして人間の意のままにならないというところで探し回る4連。
同じことがあれば、きっと同じ道を辿るであろう、現代家庭の小事件とも言えそうです。
●相野零次さん「光」
3行目の最初の「ふん」は、拒否する時の「ふん!」にも読めてしまうから、最初の方も「ふん、ふん」2回の方がいい。
この詩はまずもって序盤がいいから読める。光の話、湿気の話。地面の固さの話など、五感に感じるものの話をしてる場面が良い。
僕の憂鬱がどしゃぶりになろうとしている。
のところまでが一番好きかな。
あと、後半の、「空を飛ぼう。」から「歌をうたおうよ。」までも良いと思う。
そのあとのカラオケボックスやミスチルはちょっと消したいかな。
歌をうたおうよ。
歌が僕は好きなんだ、今日も僕は歌ってきたんだ。星になれたらって歌。素敵な歌。
こんな感じに、そこは略したい気がする。
次に、
眠らなければ朝は訪れないこと、僕は知っている。
十分に眠った。
僕を素敵にいざなうことが少なすぎて、僕はほとんど寝てばかりだから、薬も僕を癒してくれるから、少しぐらい起きていたってどうってことないこと、僕はわかってる。
物語の続きを語ろうよ。
ここのところもちょっとおもしろいんだが、私は、
「起きてる世界には僕を素敵にいざなうことが少なすぎて、僕はほとんど寝てばかりだから」
のフレーズをもっと生かしてほしい気がするけど、ここって寝ることの賛美や正当性を言いかけているようで、それをちゃんと言わないまま、話の展開的には「もう充分寝たから起きててもだいじょうぶ」みたいなストーリーで進んでるとこが、どっちつかずな印象で終わる。ここはもっと丁寧にやってもいいとこな気がした。
それからこれは、行分けしてるけど、書き方が散文詩の書き方なので、散文詩の形を取った方がいい。
お勧めの書き方は、1行を30字で折り返しです。行分けはせずに「。」で区切るか、1文字アキで区切るか、して続けて書きます。
散文詩として読めば、全体として感じるところはある詩なので、マルです。
推敲の時に、もうちょっと細部まで、気を配れたらベター。
秀作を。
●晶子さん「烙印」
きょうは広島原爆の日。先の戦争の傷跡に触れ、今起きている戦争のことへと思いを巡らす心はとても良いと思う。また詩の構想としてもできている。
そこまではいいんだけど、もうちょっと丁寧に書いてほしいなあ。「構想をあっためる時間」みたいなものも、ちゃんと持って欲しい。
単純計算でいうと、79歳以上が「戦争体験者」ということになるが、「戦争をした」ということになると最低限、義勇兵で15歳だから、いま94歳以上ということになるだろうか。
いちおう私は、軍に入隊してた人を「戦争をした人」と呼び分けていますけどね。もともと「戦地に行った人」という呼び分け方があって、「戦争をした人」というのは、それとほぼ同意で使われている感じです。
また、意志の問題の話だとしても、女性でもプロパガンダに踊らされたとはいえ、大人であれば賛同の意志があったと言えるかもしれないけれど、当時子供だった人にそれを言うのはどうだろうか???
つまるところ初連の「戦争をした世代」という言い方は大雑把すぎて、言葉の使い方にちょっと問題がありそうに思いますよ。
3連の「何年も」も、どの戦争のことか???と思いましたけど、太平洋戦争ないし、日中戦争~太平洋戦争のことを指してるなら(終連を見ると、それのこととしか思えない)、「何十年も」としないと、時代が合ってこないですよね。
当時、ものごころがついてる年齢以上の人には、なにがしかの戦争体験が、消えることのない「烙印」の記憶となって残ってるというのはそのとおりで、そのアプローチはおもしろいのですけど、もう少し丁寧に書いた方がいいかなと思います。
また、3連の老人が何を語ったか、一つくらい具体に突っ込んだ話を入れるのも、深みが出ていいと思うのです。3連では一人に焦点を絞って少し深掘りしても良かったと思う。
あと、最初と最後、「額」を掛けてるのはわかるんですが、現状ではあまり機能していません。3連の老人の「額」も使えば、少し改善するかもしれません。
うーーん、晶子さんは、少し読み込みが足りないのかもしれませんよ。詩って、「読む」ことと「書く」ことの両方をしないと、なかなかうまくなりません。MY DEARのHPだけでも毎号読むようにしてみて下さい。特に自分と波長の合う人の詩は、毎号読んでおくようにしてみて下さい。
せっかくのいい構想なのにな。もったいないことになってる感じがします。何年かしてリメイクしたら、これ、もっといい詩になってることと思います。
うーーん、まあ「何年」のミスはあるけど、後半はまずまずなので、おまけ秀作を。
●温泉郷さん「竹のしなり」
終連がなんともステキで、じーーんときました。
この詩は最初から、「これで剣道をやめる」というところから入ってきてるんですが、その最後の大会で、よもやの大健闘物語があって、父からいつも言われてた「強くなってる」を実感します。で、「勝ち」味を覚えてどうするのかと思いきや、よもやのことを語る終連なのです。
最初は剣道が弱いから、見込みがないからやめるというニュアンスで進行しています。一方で「強くなってる」という父の言葉や「前に出れば勝てる」というN先生の言葉がありますが、本人はあまり信じていない。ただこれで最後だからと、がむしゃらに言われたとおりに前に出る。するとおもしろいように勝ち進むし、対戦の中で剣道の良さ、楽しさみたいものも知っていくこととなったと思える。つまり、そこまでは剣道が弱いから・強いからという土俵の上でしか進行していないと見えるので、読む方もその中で考えてしまうのですが、主人公はもっと違うものを学んでいたという結末の意外性に感動します。
また、この話は、以前に拝見したバスの絵を塗りつぶしたお話の、最後に剣道を始めたことに軽く触れられていた主人公の、続きの物語を読ませて頂いた気持ちにもなりました。
まあ、この詩はなんといっても終連がキモですけど、もちろん試合での、自分でも不思議に思う快進撃の様子や、対戦相手から感じるものがあるところも読みどころですね。特に後者は、剣道の芯となるものに触れかけている感じがして読みました。
また、前半4連の
父さんは
毎週 道場にきて
稽古を最後まで見て
最後の礼を丁寧にした
お母さんたちに混ざって
お茶当番をした
少しだけ嫌だった
父の行動から感じられる思いや姿勢、それに対して自分はイヤと思うところも、この年齢の親子のリアル感があって、好きな連だったです。
タイトル「竹のしなり」のつけ方も、おもしろいね(最初、竹細工の話かと思ったよ。いい意味で裏切られた)
うむ、終連だけで25~30点くらい稼いだ気がするけど、名作を。
1ヵ所気になるのは、2連を見るかぎり、「これで やめたい」と言おうと思ってるということだが、まだ言っていないわけだし、7連においても、それらしき弱気なことを言ったばかりなのに、その時点においてもう父の、「最後なのにな」の言葉があるところがわからない。「?」をつけて謎かけにしてるが、謎解きが後ろに用意されてる感じがしない。ここの「?」は、ホントに「?」のままで終わる。
「小学校最後の試合なのにな」の意味だったのか。この子はこれで辞めるつもりだなということを察していたということなのか。
現状の詩においては、前者だと言ってくれる方がまだしもそう読みうる。後者だと言うには、現状の書き方では無理だと思う。伏線が足りない。
そこの問題が解決できたら、代表作入りさせてもいいと思います。
●荒木章太郎さん「ロールキャベツ」
あのーー、まず基本的に抒情系と抽象系は書き方が違う、言葉の扱い方が違うということを承知しておいて下さい。「別々」が基本なんです。
たしかにミキシングする人もいるのですけど、ミキシングするにはセンスが必要で、そのセンスはどうやって磨くかというと、やっぱり抽象系の詩をしっかり読み込んでる人が多いです。
そういう影の努力みたいなものを充分せずに、自力だけでミキシングに挑戦するのは、やっぱり無理があると思いますよ。
なので、基本に戻って、「どっちか一方で書く」という姿勢でいることを勧めます。
荒木さんの場合には元の文体が抒情系の文体ですし、言葉の扱い方も、特殊な表現のところを除いては、ベースは抒情系(述部など特に)の扱い方をされてるので、ご自分の基本は抒情系だと思われた方がいいです。
今回の詩は、ご本人的にはかなり抽象系のつもりで書かれてると思うのですが、ご自身のベースの抒情系が、この詩においても基礎部分にあるので、結果を客観的に申せば、抽象系6:抒情系4って感じの仕上がりになっています。かなり中途半端な状態です。
キャベツで展開されたコンセプト自体はおもしろいし、書きたかったこともなんとなくわかる。内容はおもしろいから、これはまた何年かして、力をつけられてから、再度アタックされたらどうでしょうね。
現状では、ちょっと中途半端なところに行ってしまうので。
話は戻りますが、現状、荒木さんのベースは抒情系の側にあるので、抽象系に凝れば凝るほど、混合体のところへ行ってしまいます。
それよりも、自分は抒情系の側にあるという認識の元に、「あくまで部分の表現として光らせるにとどめる」というスタンスで書かれた方が、現状の荒木さんのパワーが最も伝わる形になると思いますよ。
この作については、先でやり直してもらうことを期待して、この場は評価はつけないでおきます。
●上田一眞さん「双葉食堂のおじさん」
双葉食堂という、どこにでもありそうな、親しみやすい名前のおやじさんですが、元・外国航路の貨物船のコックだったんですね。意外な過去でした。いろんな国でいろんな経験されてるでしょうから、さぞかし話がおもしろかったことでしょう。グローバル化された今と違い、昔であれば、国による特色ももっと際だっていたでしょうしね。それにしても、昔の船乗りには、「港、港に、女がいる」って人が多かったみたいですね。私も何度か耳にしたことはありますが。
姿を遠目に見ただけで逃げるなんて、そりゃ心当たりがあったから逃げたんでしょうね。どうせあることないこと、言いふらしてたにちがいありません。行く港ごとに、結婚の約束してたりとかね。その修羅場寸前の描写もおもしろかったです。
また、最初の物語の「おかめうどん」をこぼすところも、こういう言わば醜態シーンの思い出も、臆面なく書いてくれるところが上田さんの詩の良さで、こんなシーンもあるから、子供ごころがより近しく迫ってくるというものです。良質のペーソスだと思います。
パート4では、海南島沖、サイゴン沖、セイロン島の具体的な話の例も示してくれてるのがいいです。おもしろいです。単に逸話をよく聞いたということだけでは漠然としますが、ここで具体化してくれてるのが、どういった種類の内容であるか、かなり明瞭に想像がつくところとなります。なるほど、こりゃときめきますね。
また、パート4ラストの
逸話は 船乗りの浪漫に溢れ
ぼくの脳内に
流れ星のように降り注いだ
この3行も秀逸です。
パート5にある「ぼくのスーパーヒーロー」の言葉はまさに!!ですね。
こんなに少年の心をときめかせくれたのだから。
そのあとの「店先の風鈴が鳴り」も、この食堂にすごく合ってる気がします。ずっと無音で読んできた中で、ここでチリリンと耳元で突然鳴らされた気がする。ふいに違う方向から攻めに合ったようです。
そして読み終えて最後に振り返ると、作者が出会ってから亡くなるまでの期間ではあるものの、双葉食堂のおじさんという、一人の人物の人生を描ききってくれてる感慨にも浸れるのです。
とても良い詩だと思います。それに200行に迫る大作でした。構成力がしっかりしてるから、この長さでも崩れませんね。小説ひとつ読み終えた気持ちになりました。
名作&代表作入りを。
私見ですが、おかめうどん、もう一杯作り直して来てくれる優しさが嬉しかったな。あれ、どんぶりこかして、自分にもかかって終わりだったら、泣いちゃうよ。
それにこの、外国航路のコックをしてた時の話って、1895年以降で、太平洋戦争が始まる前の期間の、まだ平和だった海の話で、期間的にも希少価値です。たぶん戦争の声が聞こえてきてヤバくなって船を降りたか、太平洋戦争に向け、船が徴用されて、降りざるを得なくなったとか、そういうことがあったんじゃないかなと思う。想像ですが。
ごくごく細かいところ2カ所。
パート2の「具沢山」は、読みにくいです。「具だくさん」にしましょう。
あと終連終行、ラストの1行の「おられなかった」ですが、
「おる」は元々「いる」の丁寧語なんです。
「おります」「おりません」で使うと謙譲語ですが、西日本ではさらに尊敬の助動詞「れる」をつけて、「おられる」「おられません」を尊敬語として使います。
しかし、ここの「ぼくはそう願わずにはおられなかった」は、その前の文脈からすると、丁寧語を使ってる場面ではなく、言い回しもヘンなので、「いられなかった」が正解だと思います。
丁寧語のニュアンスなく、「いる」をなんでも「おる」と置き換えた言い方をしてしまうのは、たぶん地域方言なので、発音上は言っちゃうことがありますけど、文字にするのは違うので、やめた方がいいです。
●理蝶さん「はためき」
なんか、いろいろ試すねえー
中身は良いのだけど、文体のリズム感が悪く、読みにくい。
この内容のものだと、いつもと文体を変えないといけない。「変える」、と割り切った方がいい。センテンスも短く切った方がいいです。
はためき
ある朝 おきて
僕が布団をはためかせると
のんきな羽毛が舞い上がって
本棚の裏へと消えていった
この部屋に
わずかなわずかな風が吹いていることを知った
ある朝 おきて
僕が海をはためかせると
南の島はまるごと濡れてしまって
ねむらない魚群は
朝日にぴちぴち光った
南洋のサーファーたちは
たいそう喜んでくれたようだった
ある朝 おきて
僕が空をはためかせると
青い稲妻が走る
白い太ももが見え隠れした
青い稲妻のようなものは
静脈が透けて見えているのだった
神様はドレスの裾をさわられて
くすぐったそうにしていた
ある朝 おきて
僕が君をはためかせると
君の下から とつぜんに
コルク栓の小瓶があらわれた
僕はなぜだか
瓶の中に入っているのは
すぐに涙だとわかった
僕は小瓶をのみほした
つめたいハッカが
耳と鼻を抜けていったが
君はまだ起きそうになかった
柔らかくふれる
おそれと いつくしみを指先にこめて
すると世界は はためいて
覆われている向こう側を
時折 のぞかせてくれるのだった
こんな感じかな?? 参考にして下さい。
普段と異なる文体になるので、リズムに乗れてなかっただけで
中身は良いよ。おもしろかった。
(涙の小瓶を飲んだだけでは起きてくれんのかあー、と個人的には思った。なかなかやっかいそうです。)
秀作プラスを。
●松本福広さん「しあわせはカレーの匂いかもしれない」
松本福広さんは食べ物系の話をよく書いてくれていて、なかなか興味深いです。
この詩も凄くおもしろくて、いい詩ですね。
でも、書いたあと、自分で少しモヤッとしてないですかね? その少しモヤッとが、なんなのか? 少し時間を置いて、考えてみてもいいと思うんです。
前半は、「感じる」ところで書かれていて、そこはそれでいいと思う。後半に入って、今の時間には見えないこと、ここでは子供の頃の思い出を書かれていていい。
そこまではいいんですが、結末部分というか主張部分になるラストで、もうちょっと「考える」を深めてほしい。
この詩、ラスト2連のロジックの乱れだけがどうにも気になります。
なので、ちょっと整理してみました。
私が思い浮かべるしあわせと
ネパール人の彼らが思い浮かべるしあわせは
たぶんちがう。
日本で「ふつう」と呼ばれるしあわせと
母国ネパールでのしあわせも
たぶんちがう。
日本のカレーと、ネパールのカレーが
似て非なるもののように。
きっと、どれも繋がらない。
けれど繋がらないままでも
私たちの間には
目には見えないもので
きっと繋がっている。
私も 彼らも
等しくカレーの匂いに惹かれるように。
言いたいのは、こういう感じのことですかね???
前半や、子供の頃の話とも連係するように、こうしてみました。
ご参考まで。
いいセンはいってるんで、もうひと押し、考えてることを伝える工夫をしましょう。
松本福広さんは、私は初めてなので、今回感想のみになります。
引き続き、ガンバって下さい。