8/13〜8/15 ご投稿分の感想です。 紗野玲空
都合によりお先に失礼致します。
8/13〜8/15にご投稿いただいた作品の感想・評でございます。
素敵な詩を沢山ありがとうございました。
一所懸命、拝読させていただきました。
しかしながら、作者の意図を読み取れていない部分も多々あるかと存じます。
的外れな感想を述べてしまっているかも知れませんが、詩の味わい方の一つとして、お考えいただけたら幸いです。
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☆「顕れた 愛」 益山弘太郎さま
益山弘太郎様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
素適な詩ですね〜。個人的にとても好みです。
こちら、ラブレターですね。「貴女」にあてた……。
このような詩を贈られたら、女としてどれ程幸せなことでしょう。「貴女」が羨ましいです。
さて、最初から味わって参りましょう。
季節を追って綴られる詩行が美しいですね。
ただ、月齢は29.5日。2024年で考えますと清明は4月4日で、4月の三日月は4月12日頃、満月は4月24日なので、芽吹きと花咲く頃の時間の隔たりを三日月から満月への位相として表すとなると、少しばかり違和感を覚えます。
しかしながら、ここでは科学的な正確さを重要視すべきではないでしょう。
花の咲く様子を夜空の月の形相に重ねる表現は美しく、この先の詩行に続く宇宙に向けての感慨への導入とも窺われます。
空に向いた視線は梅雨の雨となって落ちてきます。
梅雨、若葉…美しく、確かに夏を予感させますね。
そして詩自体も、2連目の2行により何らかの展開を予感させます。
「その時」…3連目が始まります。
「空を駆ける 彗星が 語るのだ」
スケールが大きいですね!!
ここから畳みかけるように、普遍性を内包しながらも個性豊かに季が語られます。
すべてが継(つなが)った季の中には「貴女」と共に過ごした様々な思い出もあるのでしょう。
具体的に記されている訳ではありませんが、季節の中で育んだ貴女との愛を「宇宙の風の中で」再認識されているように感じました。
4連目に移ります。
「そして」…この一呼吸おいた、わざとらしくない改まった接続詞のおき方、いいですね。
「僕は今 貴女を 愛しています」
静謐さを伴い、そっとおかれたこの告白は、ぐさっときました。
弘太郎さんが一番伝えたいことですね。
天の川、太陽系…壮大な宇宙を従え、愛はそれよりも大きいと言いたい処を、内的にとらえ、
粛々とした 力であって
爽やかな 愛だ
と控えめに語られている処も、弘太郎さんのお人柄と貴女への深い愛が感じられて、好感を抱きました。
詩自体も「颯爽と」晴れやかに終曲へ向かいます。
形を留めぬ風、消え往く星…
僕達も消え往く運命ではあるけれども、
僕達は、そして、僕達の愛はここにあること〜強く胸に刻まれ、余韻を残しました。
壮大ながらも、地に足のついた作品だと感じました。静謐さと清涼感漂う素適な詩、ラブレターでした。
題の「あらわれた」に「顕」の文字を使われたのも大きな意味を含んでいるのでしょう。
秘密にすることなく明らかに顕すという仏教の「顕」を意識されたのでしょうか。
佳き作品でした。
ありがとうございました。
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☆「ある夏休みの夜の僕」 喜太郎さま
喜太郎様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
今回は、若者の甘酸っぱい恋の詩ですね。
井嶋りゅうさんも書いてらっしゃいましたが、私も喜太郎さんの恋愛詩を楽しみにしている1人であります。
ところで喜太郎さん、来年受験生ではありませんよね。
思い出でしょうか、想像でしょうか…。
何れにせよ、いかにデートに誘うか…直面して悩む高校2年生の揺れる心がリアリティーをもって迫ってきます。臨場感たっぷりです。
連分けなく、心情がそのままストレートに綴られています。
素直に語られた僕の心の声が、夏休みの夜の情景の中に浮かび上がってきます。
このような思いを抱えて夏の夜空を眺めている人は少なくないのではないかと感じました。
詩の半ば、送信文が『』で表記されています。強調したいが故の『』だと思いますが、他に「」を使用した箇所もありませんし、「」でいいのではないかと思います。
かな かな かなと心の中の虫が泣く
緊張感の中にひょうきんさを垣間見せる表現が生きていますね。
そして、流れ星に背中を押される形で押される送信…。
このあとの
やがて〜 やがて〜 やがて〜
の3行が少し勿体ない感じもします。
送信を押してしまえば、あとは野となれ山となれ…期待するしかないのですが、現実的に考えると、既読がつき、会話が始まるまで、少し時間を要すると思うのです。
僕が迷ったよりも、彼女は迷うと思うのです。
そんな趣きを加えつつ、やがて〜 やがて〜 の行間に埋もれてしまった思いをもう少し掘り下げていただけたら、更に情趣溢れるものになる気がいたします。
暑い夏の日差しより熱い思い出の日が始まる
の最後の締めも素適です。
ただ、「思い出の日」というと過去のことになってしまいますので、思い出となるであろうというニュアンスを含む言葉を加えてあげてはいかがでしょうか。
御一考くださいませ。
夏休みの夜の僕の心情…痛いほど伝わってきました。
御作、佳作とさせていただきます。
ありがとうございました。
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☆「なつのおと」 じじいじじいさま
じじいじじい様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
「なつのおと」色々ありますね。
セミ一つとっても、色々な鳴き方がありますから、それを詩にしようとすると、とても難しいと思います。
ミーンミーンとツクツクボウシツクツクボウシでは、作り出す夏のイメージには随分隔たりがあります。
擬音語、擬態語の詩における使い方は、私にとってはとても難しいのですが、じじいじじいさんは作品の核としてオノマトペを上手に使用されていて、そのリズムはとても心地よく感じられました。
詩は3連にわけられ、1連目では代表的な夏の音のオノマトペが記されています。
2連目は概観的に季節の音について述べられ、3連目、くすっとさせられる素適なオチで終わっています。
とてもまとまりのいい作品なのですが、せっかく、「なつのおと」と題されているので、2連目は、概観的視点による四季や世界の音への疑問ではなく、「なつのおと」そのものを深く堀りさげた方がいいように感じます。
御一考くださいませ。
詩はひらがなでやさしく、小さな子に問うように書かれています。
じじいじじいさんの多くの詩にはそういった試みがみられ、いつも素晴らしいと思いながら拝読させていただいております。
大人が綴る子どもに向けた詩は、私自身はとても難しいと常々感じています。
職業柄、子どもたちと詩の話をたくさんします。
子どもが好きな詩…例えば、くどうなおこさんの「のはらうた」などはみな大好きです。
特に、かまきりりゅうじの詩は人気があります。
「おれはかまきり」 かまきりりゅうじ
おう なつだぜ
おれは げんきだぜ
あまり ちかよるな
おれの こころも かまも
どきどきするほど
ひかってるぜ
多くの子どもがこの詩を諳んじています。
かまきりになりきって諳んじます。
「のはらうた」は、動物たちそれぞれの、揺るがぬ視点で書かれていることが、子どもに共感を抱かせるのだと感じています。
一方で、子ども自身は想像以上にシビアな詩を書きますから不思議です。
少々脱線してしまい、申し訳ありません。
おとなの視点や子どもの視点を混合するよりも、視点は一つに絞った方が、特に子どもには詩の真意が伝わりやすく、親しみやすいのではないかと…子ども達と接していて感じた次第でございます。
佳き作品でした。
ありがとうございました。
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☆「狂気」 紫陽花さま
紫陽花様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
またまたほろりとさせられました。
1連目から味わって参りましょう。
風邪にかかってしまったのですね(お大事になさってくださいね)。
長引く風邪〜しかし一方で、お庭のバタフライピーは元気に蔓を伸ばしている…。
病気の作者と真夏の緑の対比、そして夏の盛りの翳りを窺わせる落ちるセミ、そしてうつのお母様…紫陽花さんらしい対象を際立たせる対比的表現が、1連目から鮮やかです。
2連目、お母様の様子が丁寧に詩句に落とされていきます。
お庭は、きっとお母様が丹精込めて手入れをなさっていたのでしょう。そのお庭の木が伐られ、コンクリートで灰色一色になっていた。当のお母様は笑っている…。
お母様の様子とお庭の様子…事実だけが、淡々と詩行とされていることが、かえって状況の異様さを物語ります。
にこにこして、いえ、大笑いしているお母様、変り果てたお庭、それを見た紫陽花さん…
拝読していて、胸がつまりました。
何もないということは
憂いもないということらしい
そしてそれが母にとっての楽だと笑っている
ここで初めて、紫陽花さんの感慨が顔を覗かせます。
1連で語られたのは、紫陽花さんは風邪という病ではあるけれどもお庭は青々としていること。そしてセミを介し2連で語られるのは、心に病を抱えたお母様の無となったお庭のことです。
憂い多くうつの中を生きるお母様の苦しみは、灰色となったお庭に表わされ、無を笑うお母様のお姿に涙がこぼれました。
3連目できれいに結ばれていますね。
すべてがお母様のもの。自由にできる空間として、お母様は新たな庭を手に入れたのかもしれません。
誰も、何も…ないというのは寂しいですが、それでも私は、無の中にお母様の意思があることに、少し救われた気がしました。
ひゃひゃひゃひゃと笑い続けているお母様…
これは題である「狂気」の笑いかもしれません。
これは詩からは離れた処での私の感想なのですが、新たなお庭はうつという苦しみの中から生まれた、お母様の美学の結晶なのではないでしょうか。それは…「狂気」とは言えないかもしれません。
ちい、ちい、ちい、と千鳥を呼んで浜で遊ぶ高村智恵子の純粋さと清らかさが、ひゃひゃひゃひゃと笑うお母様に重なります。
コンクリートの割れ目から、草花が咲くこともあります。
灰色のお庭にまた別な笑いをもたらしてくれる、あたたかい光のようなものが芽生えてくれたらいいな~と勝手ながら願っております。
お母様がお幸せでお健やかでありますように…。
御作、佳作とさせていただきます。
ありがとうございました。
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☆「美しいもの」 森山遼さま
森山遼様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
当然ながら『枕草子』の「うつくしきもの」(こちらは現代でいう処のかわいらしいものですが)が思われました。
冒頭、「…呼んでみたい」という表現は面白いですね。
最初が「宇宙の終焉」。呼びかけて、最初に頭に浮かんだのが「宇宙の終焉」ということでしょうか。
大抵は、身近なものから、「美しいもの」を連ねて書いていくように思います。
清少納言も「瓜にかきたる児の顔」と手元のものをまず愛でています。
ところが、森山さんは「宇宙の終焉」と来た!!
とてつもなく大きな処「宇宙」から本作品が始まっていることに、まずもって感服いたしました。
それも終焉…。
そして、
ブラックホールを通り過ぎる 透明なひかり
と、これまた大きい!!
さて、清少納言の「うつくしきもの」の羅列の順番は、あまり意味がないように思われます。
随筆ですから、思いつくがままに、綴っていく処に味わいも生まれるのでしょう。
こちらは、詩ですので、少し順番を工夫してみてもいいかもしれません。
あくまで、ご参考までに案としてお聞きいただけたら幸いです。
「ブラックホールを…」のあと、「あんぱんのへそ」がきた方が、より互いが引き立つと思います。
(あんぱんのへそ! 宇宙を思う方の視点とは思えないギャップに驚かされました)
そして、「脚の長い少女…」とありますが、後半、美しい娘が登場するので、こちらは少年としたらどうかと…。
私の好みですが、男女男女…、女男女男…と並べがちなので…
つまりこうなります。
美しいものを呼んでみたい
宇宙の終焉
ブラックホールを通り過ぎる 透明なひかり
あんぱんのへそ
おじいさんが座るベンチのとなりあたり
おばあさんのゆっくり歩くうしろすがた
脚の長い少年のくるぶしのあたり
美しい娘の風切る速歩
雨の中で聴くことりのさえずり
流れる風 そよぐ 木の葉
一つ一つの美しいものは、あまりに「美しい」です。
清少納言に勝るとも劣らぬ森山さんの個性的な審美眼に感服しております。
私なりに並び替えてしまいましたこと、お許しください。
(並び替えをしながら、女性的視点が過分に入ってしまうようにも感じました)
良し悪しは別として、並べ方によって、詩の様相も随分変わってまいりますので、色々試してごらんになるとよろしいかと存じます。
佳き作品でした。
ありがとうございました。
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☆「怒りの星で生きるには」 荒木章太郎さま
荒木章太郎様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
こちらの作品を味わうには「羊の生贄」が重要なキーワードとなるように思います。
「羊の生贄」とはスケープゴート(scapegoat)…古代ユダヤで年に一度人々の罪を負って荒野に放たれた山羊のことで、現在は宗教的な意味合いから転じ、防衛機制の一つとして不満や憎悪、責任を、直接的原因となるものや人に向けるのではなく、他の対象に転嫁することでそれらの解消や収拾を図った時の、その不満や憎悪や責任を転嫁された対象を指すそうですね。
事態を取りまとめるために無実の罪を着せられた「身代わり」や、無実の罪が晴れた場合の「冤罪」、またある集団に属する人がその集団の正当性と力を維持するために、特定の人を悪者に仕立てあげて攻撃する現象をも指すようです。
学級におけるいじめや家庭における虐待も同様であるらしい…。
これらのことを踏まえて、拝読させていただきました。
1連目は「羊の生贄」の普遍的な見解、思いが詩句に表されています。
納得の1連です。
2連目からは俺が犯した罪に対しての「羊の生贄」が語られます。
星を滅ぼすほどの
愛情が曲がって歪んで……
天塩にかけた羊のために
悪者探して生贄にする
由々しい詩行に圧倒されます。
ご家庭の中の問題でしょうか…。
天塩にかけた羊…章太郎さんの大切なものを守ろうとする気概を感じました。
3連目に移ります。
腫らした瞳で明星を見上げる(明け方までに〜という表現がよくわからなかったのですが)。…明星を女神と称されていますが、キリスト教では明星は「光をもたらす者」(ラテン語)。イエスのことを「輝く明けの明星」と呼ぶこともあるようです。
生贄への罪を嘆きつつも、羊を守る先に見える希望や怒りが吐露されています。
無というのは、無関心のことでしょうか。
羊への思いと、羊を生贄にする、しないという交錯した思い、それら全てに無関心であることへの恐れ…章太郎さんの中で渦巻いているように私には感じられました。
まだ繫がりを求めているのだ
の1行はそうした問題への積極的な関わりへの意思でしょうか。
まずは互いの恐れを出し合い
嵐の中でも対話を続ける
全体的には「羊の生贄」の捉え方により、様々な読み取り方ができる作品かと思いましたが、最後の着地となるこの最終連の詩行は、単なる他者との対話においても普遍的に肝要な意味を持つ連として胸に響きました。
昨今叫ばれている難しくも大切なテーマに切り込んでいただいたように思います。勉強させていただきました。
御作、佳作とさせていただきます。
ありがとうございました。
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☆「イチゴ大福」 温泉郷さま
温泉郷様、こんにちは。御投稿ありがとうございます。
いい詩ですね〜。
「イチゴ大福」という題もとてもいいと思います。
最初から味わってまいりましょう。
1連目…「あなた」の姿が、短い言葉で適切に語られます。まっすぐな性格の「あなた」の凛とした姿が想像されます。
2連目…1連目が更に強調され、沼の中で女一匹泳ぐ「あなた」(何らかの施設のような場所で生活されているのでしょうか)の苦難を想像させます。
3連目から、「あなた」の中に住む少女が語られます。
「あなた」はお年を召した方なのでしょう。しかし、「あなた」の感情表現は少女のそれのように、純粋で可憐であることが窺えます。
7連目から題にもなっているイチゴ大福が登場しますね。
少し和らいだあなたの瞳の中に
「おいしい!」と叫んでいる
少女を見つけて
こっそりとハイタッチをする
この詩行、素敵ですね。
そして、このあとの3連…とても考えさせられるのです。
ハイタッチで終わらないのが、いつもながら、温泉郷さんの詩の素晴らしい処だと思います。
(説明じみたことを書きたくはないのが本心ですが…)
ゆっくりと時間が流れ、「あなた」が浮かべた微笑みは、「あなた」本来のものであり、「あなた」の行動に意味を持たせている少女(仮のあなた)は「あなた」が真に微笑む時、影を潜めるのですね。
もしかしたら、「あなた」は知的、精神的能力が失われていると言われる枠にはめられてしまった方かもしれません。
大好きなイチゴ大福と共にある時、少女(仮のあなた)はイチゴ大福とかわるようにしばし席をはずし、「あなた」は本当の涙を流すのでしょうか。
幸せの涙でありますように願うばかりです。
イチゴ大福を次にいただく時には、私も「あなた」を想い、涙を流すでしょう。
御作、佳作とさせていただきます。
素適な作品をありがとうございました。
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以上、7作品、御投稿いただき、誠にありがとうございました。
それぞれに、素晴らしい作品でした。
十分に読み取れていなかった部分も多かったかと存じます。
読み違いはご指摘いただけたら嬉しいです。
厳しい暑さと蔓延するコロナに加え、水害、地震…
不安なお盆休みとなりました。
これ以上被害が出ることがないよう、皆様がお健やかに生活できますようお祈り申し上げます。 紗野玲空