戦争体験 静間安夫
誰だって その体験を
話したいと思って
話してる人はいない
書きたいと思って
書いてる人もいない
決して思い出したくない、
できることなら
記憶から消し去りたい、
そんな出来事の一場面、一場面を
あえて呼び起こし
言葉を絞り出しながら
語り、あるいは書く―
こうした作業が
その人の精神にとって
どれほどの負担になることか
ある人は
飢えと渇きに苦しみながら
密林を彷徨い
ある人は
爆撃機の音が轟き
焼夷弾が降り注ぐ中を
炎に追われながら逃げ惑い
ある人は
死に瀕した戦友を
なすすべもなく
見送るしかなかった―
そうした記憶のどれもが
自分だけが生き残ってしまった、
という負い目と
分かち難く結びついているのだ
だからこそ
これらの体験は
自分の心の奥深く
忘却の底に沈めて
しかるべきではないのか?
なぜ今、その人は
他者に対して話そうとするのか?
そのうえ
苛酷な体験を伝えようとする人は
答えのない問いに悩まされている―
経験した当人にしか
わからないこと、知り得ないこと、
これほどに日常から隔絶された
言語に絶するような経験を
他者に伝えることなど
果たして できるのだろうか?
中途半端にしか伝わらないとすれば
命を落とした人々への冒涜にはならないか?
それだけではない…
これほど苛酷な事実を
若い世代に聞かせることで
彼らの人間への信頼を
失わせることにならないか?
若い人たちの人生に対する希望に
暗い影が射すことにはならないだろうか?
もし知らずに済むことならば、
あえて話す必要などあるのだろうか?
こうした問いを
日夜繰り返しているのだ
それでもなお
自問自答の末に
その人が語り、
また書こうとするのは
いったいなぜなのか?
その
止むに止まれぬ理由を
他者としてのわれわれが
推し量ってはじめて
体験を受け継ぐ出発点に
立つことができるのだ
それなくして
マスコミの常套句に倣って
「戦争体験者の高齢化に伴い
戦争の記憶の若い世代への継承が
課題になっています」
などと
決して安易に言うべきではない