評、8/16~8/19、ご投稿分。 島 秀生
迷走台風ですね。
まもなく「風」としては「台風」ではなくなると思われますが
しかしながら、依然として雨雲は凄いままですので、
大雨による被害には充分、ご注意下さい。
●人と庸さん「夏の日」
人と庸さん、ウマイですよね。前に1回、評させてもらった時にも、この人、シロウトじゃないなって感じがしてたんですけど。どこか同人誌で書いておられる方かもしれません。
初連、ステキですね。初見では「カーテン」は場の説明かと思ったんですけど、2回目読むと意味がわかる。閉めていた記憶の扉のようなもの。それを「重いカーテン」で表現しています。そして、カーテンの揺れにあわせて、記憶があふれ出てきます。
2~3連は、立ち位置として現在にいる状態で、思い返しているから現在形。4~5連は、過去のシーンに自分も入り込んでいるから過去形です。それに4~5連は、2~3連で描かれた棺に入った葬儀シーンよりも数年以上前のシーンであるようです。
6連の「キッチンカー」は、非常に現代的なアイテムでいいですね。この詩を現代的なものとしてくれる、良いスパイスです。
ところで、2連、
鼻に脱脂綿を詰められた
君のさいごの顔
は、ぼんやりそれかなと想像はつくものの、決定的な書き方まではしてなくて、やや謎かけぎみに登場します。
それが7~8連の「お盆だからあいにきてくれたのか」の詩行で、やはりそうだったかと決定的にしますし、閉ざしていた重いカーテンが揺れた理由でもあるのでしょう。
次に、9~10連でも匂わせていますが、11~13連では死因が交通事故だと、いよいよはっきりしてきます。
終連は、お盆らしい、夏の日の風景で閉じられます。さらり書かれた1連ですが、映像力があって、いい終連です。
ざっくりとですが、年齢的に言って、だいたい50代後半くらいから片方の親が亡くなっていて、60代後半くらいから両方の親が亡くなってる感じのパターンの人が多いのですが、親が亡くなると、当然ながらお盆は親のことをするのですけど、そういう年齢でなくても、年齢それぞれに、人それぞれに、お盆は思い起こす人があるものだなと思いました。
うむ、とてもよく書けてました。名作あげましょう。
●相野零次さん「神様の話」
まずもって、スジは繋がっています。気持ちよく、騙されてみたい気持ちにもなるので、OKです。
概論的に、距離感のある話もままあるのですが、挨拶が簡易な祈りであるという話や、眠っている時は、神様の触媒になっているという話。トドメは亡き父の話が出てきて、このあたりで、話がぐっと近くなってきます。自分個人に関わるところに話が着地できているのが良かった。
努力賞もあるので、秀作プラスにしましょう。
3点ありますが、
まずお金のところ。
お金があります。人間が作り出したルールのなかで、最も複雑でよくできたルールです。と同時に、最も罪深いルールです。
この言い方でいいんじゃないかなと思います。
次に後ろから3行目のところの「僕は神様のひとりとして」ですが、
「太陽系ひとつまるごとが、一人の神様です。」「人間一人は、神様の身体の細胞のひとつだといえます。」や、
直前の父の記述についても、「もしかしたら神様の一部になっているのかも」の記述があり、この詩では、神様は一貫して「単独」思考をしているので、
ここにきて急に、神様が複数人いるかのような「僕は神様のひとりとして」の表現は明らかにおかしい。
文脈と合わせるなら、ここも「神様の一部として」でしょうね。
3点目ですが、最後の「思うのです」を除いて、詩中にある「思います」は、すべて「です・ます」にしてしまっていいと思います。そこがまあ、論述文でなくて、詩であるところなんですが、詩の上では、「(この見方があって良いと)我思う」の意見として書いてかまわないので、「です・ます」で言い切っちゃう書き方をしてかまわないです。
以上です。
●秋さやかさん「花火」
うーーーん、秋さん、さすがですねー
前半の美しさ、練度の高さは群を抜いています。ほれぼれしますね。
祖母の通夜からの帰りですが、近親者だけが乗っている感じなので、参列者よりも遅い時間、夜9時くらいなんでしょうか。マイクロバスの中での情景と思念を描かれています。
まどろみながら考える様の描写も美しいし、親戚の会話のあしらい方もオシャレです。
特に5連の、
死を畏れないための
やさしい忘却の果てで
祖母は眠っていた
は、認知症が進んだ状態での死を、このように解釈されていて、ステキです。
後半ですが、17~19連が、通夜の帰りに見た花火の感動に似た事例を、3つ並列で並べてるところなのですが、事例に入る時の入り方がちょっとマズイので(ここ事例を並べてるんだと、初見ではわからなかった)、その手前の並びを、
夜を越えて打ち寄せてくる
花火の振動に
人生そのものが
肯定されているような
歩くことと葛藤しながら歩く
長い道のりの中で
いつも唐突に訪れる
その感覚を知っている
こうした方が良くないですかね?
いつも唐突に訪れる
その感覚を知っている
の連の次から、その事例が始まる、とした方がいいと思います。
その上で、ちょっと不明で雲を掴むように感じてしまう18連も、表現変えたほうがいいかな?と思う。
以前、プラネタリウムのことを書かれていた詩の記憶があるので、おそらく18連はプラネタリウムを言ってるんだと思うのですが、ご自分でもこの場に合わない感じがあって、遠回しの言い方をされてるんでしょうけど、これちょっと変更して、ここ流星群にしてしまいませんか?
見上げた宇宙に包まれる
流星群の
天体ショー
こんな感じでいかがでしょうか? その前の17連が画廊で、室内のものなので、こちらは外の感じのものを。また、ここは3つの事例の中の1つなので、前後の連のリズムに合わせる必要があり、あまり表現が長くならない方がよいところなので、これぐらいでいいような気がします。
以上、事例の嵌め方の部分については、一考下さい。
ラスト。
祖母にもそんな瞬間があったはずだと、辿り着く思考からの、
慟哭のように
歓喜のように
夜へしずみゆく花火を
一心に見つめていた
の閉じ方が、またキレイですよね。ホントほれぼれします。
現状のままでも名作ですし、指摘した部分を一考してもらったら、代表作入りでいいと思います。
●上田一眞さん「夕焼けと焼き芋」
冒頭、今の夕陽は美しくない。本当に美しいのはと、夕陽論議に入ったので、すっかりそっちに引っ張られていました。子供の頃の、故郷の浜辺が映り、きれいな夕焼けと、おいしい紅芋の焼き芋を皆で食べる。家族団欒のような、ほのぼのとした風景を感じさせてもらって、酔いしれていると、
その紅芋を船で売りにくる島が、かつての回天の基地があった島だということで、急転直下の展開になります。その落差が衝撃的です。
当時は、なんでも呉かと思ってましたし、呉の大和ミュージアムで回天も見たのですが、生産は呉でも、基地は山口県の大津島だったんですね。大津島の名は、ぼんやり聞き覚えがあったんですが、もっと呉の近くの島かと思ってました。回天は特殊な訓練が必要だったために、従来の海軍基地からは離れて、別途に大津島に、回天だけの基地ができたようです。
また、離れたとこにできたのは、当時、回天が機密だったことも関係してるかもしれませんが、その、島の近くがすぐ深くなっているという地形が、回天の訓練に適していたことがあるかもしれません。
御霊が眠っているからということで、その島では釣りはしないのですね。出撃基地だったこともそうですが、その島での訓練中にも、実際何人か亡くなっているようです。
詩の最後は、夜光虫に絡めた鎮魂で締めくくられます。
うむ、いい詩ですね。回天の基地があった島と、こんなに間近に関係があったんですね。
単に距離が近いというだけでなく、食べ物繋がりで話を入られたのは、他人事でない繋がりとなっていて良かった。名作を。
船で、湾内の港を日帰りで一巡する行商というのも、私、初めて聞きました。そういう行商は他に類がないんじゃないでしょうか。昔の事ではあるでしょうけど、非常に珍しいと思う。
芋の違いの話(今は絶滅してる芋の話が稀少)といい、船の行商の話といい、土地の風土性も辿ってくれている気がする。回天の話だけでも充分すごいのですが、それらも加わっていて、より良いです。これも代表作入りですね。
余談ですが、
山口県の隣は福岡県だと思い込んでいたのですが、山口県南岸と大分の国東半島が意外に近いというのも初めて知りました。歴史の勉強だけでなく、地理の勉強にもなりました。
(駅名としての「徳山」が昔から有名なので、いまだに徳山市があると思っていた私)
●松本福広さん「『分からない』と『希望』を宇宙で繋げて」
結構、論理的に追っていってる詩なので、まず、論理的に違和感があった部分をいうと、
昨日わからなかったことは昨日としてピリオドを打つ。今日分からないことがまた生まれる。
ここですねえ。
昨日と今日でピリオド打てるなら、宇宙的な無限思考には行かない気がする。この行自体はとてもおもしろい言葉なんですけど、前の連から続く詩全体の流れのロジックからすると、ちょっと食い違う言葉に感じるので、この行は省いた方がいいかな・・・・・・、
と、思ったんですけど、ここを省くと終行の言葉に辿り着けなくなるのかなとも思う。
構成上からの着地をいうと、宇宙の話をしておいて、最後は「地球から、その余白の1ページを切り取る」みたいな着地にした方が、前と繋がりやすいのですけどね。
この詩はタバコが燃え尽きるとこから、くるりと「有限の話」に切り替えて割り切ってしまってるところがあって、前との連係が途切れそうになるので、いま示したような、前との連係が取れる着地にした方がいいと思いますけどね。私見ですけど。
思うんですが、根本的な話が、夜の空を見ると宇宙の無限大に、話が行きがちなんですよね。
ところが夜が明けて見えるものは、地球の、地上からの眺め以外の何物でもないわけで、そもそも話を繋ぐのが難しいところで話を展開されてるかもしれません。
あと、「夜中4時の曇天」とか「曇り空ではない空だった」とか、曇り空へのこだわりが見えるんですが(たぶん撮影上のことかしら???)、現状の書き方では、その理由がまったくわからない。そこのこだわりがあるなら、書いた方がいい。
あと、打ち間違いも少しありますから、見直しておいて下さい。
うーーん、2~3連がボリューミーで話もすごく大きく、おもしろくなっているので、そこに合わせた終連を持ってきて欲しいという感じになってます。
もしかしたらそこが、当初の予定と違ってきてるのかもしれません。有限の話にうまく転ぜられてない気がします。
ということで、終連にちょっと異議があるんですけど、
まあ、だけど、そこまでは良いと思うので、秀作を。
●秋乃 夕陽さん「蜻蛉」
「蜻蛉」は、「カゲロウ」とも「トンボ」ともどちらにも読めてしまうのですが、私はまず詩中の動き方から、全く「トンボ」っぽく思えなかったので、「カゲロウ」で読ませてもらいました。
メタリックに蒼く光る尾に
の表現がありますが、これがまた迷いどころで、アオハダトンボやアオイトトンボの色にも見えるのですが、結論として、クサカゲロウの類で羽が(黒いレェスのの表現がありますが)黒く見えるタイプの種なんだろうと思うことにしました。
修飾表現に入る以前に、漢字で「蜻蛉」と書かれているところと、詩中の整合性から、そもそもこれが何なのかで、さんざん迷ったというのが、この詩の一番の難所でした。
いちおう言うと、カゲロウの場合であれは、「蜉蝣」の漢字を当てると迷わないです。
本論ですが、この詩の読みどころは
尾に
赤くオレンジ色に輝く火が
一匹また一匹と着けられてゆく
のところです。この火が想像の部分です。
命が終わろうとしている生き物の動作を追いながら、「尾に火がつけられて、全身に火が回って、落ちてゆくようだ」と表現した、ここが醍醐味ですね。
作者には、他の人には見えない、命の火の終わる様子が見えているようです。
そう解釈すると、この詩はとてもおもしろい。
あるいは、瞬時の出来事に描かれてはいるのですが、カゲロウの命の短さを比喩的に描いたものとも言えそうです。
この詩は、この「火」に焦点を合わせて、抽象の詩に読んだ方がおもしろいので、抽象の詩の場合に、場を具体的にしないで読者の想像に任せた方が良いので、初連の前3行は削除して、
低木の緑の陰から一斉に黒いものが飛び出した
から始めたほうがよいと思います。
それから終連3行目、
苛烈に明るく照らす八月の太陽は
の中の「明るく」は、終行の「輝かせていた」とカブって邪魔をしてしまうので、ここの「明るく」は削除した方がよいです。
「蜻蛉」の表記と上記2点、一考してもらう条件で、秀作プラスとしておきましょう。
まあ、火がついたと表現した、本当の趣旨はわからないですし、誤読してるかもしれないんですけどね、
こう解釈して読むと、とてもおもしろくなるという、いい詩でした。
●理蝶さん「日々」
理蝶さんの本当のところは存じませんが、この詩は医学生(あるいはもう少し先かも)のイメージで書かれている詩と思い、読みました。
命を預かる仕事だから、責任の重い仕事ですよね。その厳しさは、4連、
いのちは 僕にすごむ
日々 すごむ
お前の手に あずけられるものは
ごめんなさい が
いちばん効かない ものなんだと
に、よく表現されています。
また5連、6連にも、1回きりの人の一生を背負わされていることを、それが毎日続くことを、人の一生の中身や彩りを思えば思うほど、重圧に飲み込まれてしまいそうになる自分を、描いています。
ちなみに、詩にはありませんが、それにつけ加えて申し上げるなら、
夜勤がある仕事だから、勤務時間がハンパないのにも驚きます。特に勤務医の時はたいへん。責任は重いし、時間も長い。労働環境聞いてると、ただただ感謝しかないと思ってしまう。
しかしながら、あれだけ忙しいと、現場に入ってからは実践形式で、あまり勉強する間がないのではないか? と思ったりするし。となると、現場に入る前に、よくよく勉強しておかないといけないんじゃないかと思うし。してみると、どの段階でもたいへんな道だなあと思う。
終連もいいですね。
空を見て、遠くにいる大切な人と繋がっていると感じる人もいれば、空の広大さに、狭くなっている心を広げてもらう人もいる。空が許してくれる気持ちになる人もいる。私の場合は、仕事で失敗をした時や人間関係がマズくなった時に、よく空を見ました。
空を見上げる人は多いですし、偏狭にならないためにも、空は見た方がいい。結局、人間は空に助けられてるのかもしれませんね。
うむ、良かった。名作を。
自分の立ち位置との密接度具合で、密接してるならば、代表作入りでいいと思います。
ちなみに、本職がお医者さんの詩人て、今も何人かおられます。皆、たしか開業医のはずですが。お医者さんならではの、とてもヒューマンな詩だなと敬服する詩人もおられます。
●津田古星さん「アイム ヒースクリフ!」
嵐が丘も時系列が難しいとこがありますが、津田さんの詩もいくつかまとめて読んだ時に、時系列に難しいものがあって、「作者の立ち位置」が変わるので、読み迷うんですが、
この詩はおそらくですが、津田さんには昔に大切な思い出があって、それが時々、顔を出すところから書かれたものだろうなと想像して、解釈させて頂きました。
2連前半では、誰よりも彼を愛せるという自信がありながら、
2連後半の
彼が求めるもののためには
私は私らしさを捨てなければならない
という理由から、違う道を選んだようです。
しかしながら、のちのちになっても、その時の選択のことを、その正否を、今も考えることがあるのでしょう。
もしかしたら、嵐が丘を見ると、今も思い出されるのかもしれません。
私はこの詩を、そんなふうに読ませてもらいました(間違ってるかもしれないけれど)。
うむ、表現力も思考もある、いい詩だと思います。
あのーー、
現状は単発で発表することばかりだと思いますが、やっぱりいずれは詩集とかでまとめて読まれる形となることが多いので、それを考えると、時系列混乱はない方がベターに私は思います。その詩が現在のことなのか、回想なのか、あるいは両者混合作なのかは、わかるように、示唆がある書き方をされた方が、私はいいと思います。
中には時の所在をあきらかにしない作があってもいいのですが、基本線としてはわかるように書いた方がいいと思う。
そこを一考下さい。
津田さんは、いい詩を書く人だから、また書いて下さい。
私は今回初回ですので、初回は感想のみとなります。