島 秀生様、「蜻蛉」に関する感想と評をありがとうございました。 秋乃 夕陽
島 秀生様、「蜻蛉」に関する感想と評をありがとうございました。
「修飾表現に入る以前に、漢字で「蜻蛉」と書かれているところと、詩中の整合性から、そもそもこれが何なのかで、さんざん迷われた」ということですが、蜻蛉は藤原道綱母の『蜻蛉日記』のように「かげろう」と読みますが、蜉蝣目の「カゲロウ」ではなく、蜻蛉目の「とんぼ」のことですね。
ただ、単に「とんぼ」と書いてしまうと、詩の性質上、蜻蛉の無念さや儚さが伝わりにくくなるので、「蜻蛉(かげろう)」とさせていただきました。
また、この蜻蛉が黒い蜻蛉(羽黒蜻蛉)で、胴体部分が光の加減で青や緑に輝いて見えるタイプだったために、二連目の「喪服を纏った蜻蛉」四連目の「メタリックに蒼く光る尾」五連目の「黒い刺繍(レェス)のような羽」と実際に縁側で観察した通りの表現にしました。
そもそも、なぜ「喪服を纏った蜻蛉」が火だるまとなって地に落ちてゆかざるおえないのか、それは終連に「八月」と指定されているようにちょうどこの時期の広島・長崎の原爆の日や終戦記念日を念頭に描き、投稿した詩だからです。
「蜻蛉」は生き物の命の短さのみならず、戦時中に苦しみと悲しみのなかで命を落としざるおえなかった人々の無念さや戦争の無情さを投影しています。
だからこそ、初連に現在の日常的な動作を入れて、その後に続く連への導入としたかったのです。
そして、終連の「八月の太陽」は辺りを「苛烈に明るく照らしながら」、犠牲となった人々の投影である「蜻蛉」を何も顧みることもなく、その光でよりいっそう無邪気に輝かせているという不条理さを描きました。
「戦争」や「平和」という言葉、あるいはそれに類する兵器や事象などをあえて詩に取り入れず描きましたが、私も読み返してみて、読者には少しわかりづらい表現だったかなと反省しています。
様々な取り組みをしながら、より読者が読みやすく親しめるような作品を作っていきたいと思いますので、これからもなにとぞよろしくお願いします。