感想と評 8/23~8/26 ご投稿分 三浦志郎 9/2
1 荒木章太郎さん 「夜空の劇場」 8/23
ここに描かれた満月はちょっと得体の知れない皮肉屋といった感じ。夜を支配する満月。その夜とは?僕には生き難いこの世を象徴しているように思えます。特に2連ですね。そこに登場する「扉座」。ゼウスさんのこの星座の出しかたが面白いですね。「忘れていた」。どうやら、これが正義の味方らしい。夢を叶えてくれるらしい。救世主か?そこに自分の意志を預ける。そんな風に読めました。奇抜な発想はありますが、ネットニュース、人工知能、ロケットなど現代性も盛り込みながら抒情枠に収まり、だいぶこなれて安定してきたと思います。佳作を。
2 桜塚ひささん 「叫び」 8/23
社会派の傾向を感じる桜塚さんです。今回は叫び。最も言いたいところは3~4連と思われます。
誰にも起こり得るといったところでしょう。たまたまの事例が「心を壊した一人ぼっちの女」。一応、この詩はその女性を主軸として進んでいきます。終わり2連も表現を変えて綴られています。
もうひとつ、
「一生おさんどんだった私かもしれない」―ここは注目しておきたい。ここで初めて語りの主人公が登場します。4連全体を受けてのONE OF THEM。イメージとして社会の底辺で働く人を思い浮かべてもいいかもしれない。 何事かを投げかけているのが理解されて佳作を。
3 津田古星さん 「氷解」 8/23 初めてのかたなので、今回は感想のみ書きます。
よろしくお願い致します。
「これからは、あなたが来てくれと言えばいつでも行く」
この詩はこの言葉が全て、という気がしています。割とありそうなストーリーなのですが、この詩はこの言葉によって、他のどれとも違う。そして、これは三十八年前と療養中の電話、二度同じセリフを言ったようにも取れるし、初連のそれは療養時に言ったのを思い出したのかもしれない。だとすると、それは1回。このあたりが判然としません。加えて大阪のアパートにいることを知っていたこと。彼のふるさとのTEL番号を知っていたこと。このあたり(なぜだろう?)と思わせるものがあります。まあ、事情はいろいろあったのでしょう。実話が基のような気もします。それらはまずまず措くとして、4連「私が何か困っていた~自分を省みたのだろう」と終連全体が印象深く冒頭のセリフを支えているのがわかります。この言葉に込められた、言い知れぬ思いは何度読んでも充分に味わうに足るものです。また書いてみてください。
4 大杉 司さん 「色々」 8/23
2連。今夏の暑さでは、そうなるのはやむを得ないことかもしれません。以降は標準的な夏の小景が続きます。特にトピックスが無く、ちょっと地味で損をしている感じがします。ところで、冒頭の1行目ですが、これだけだと削除も可能なのですが、逆発想をして、この部分を広げてトピックスに持ってくるという手はあります。辺りは普通の夏なのに自分は引っ越しなどもして、とても普通の夏ではなかった。そんな流れを作ってもよさそうです。そこに個別性の夏が引き出せると思います。
あと、タイトルはもう少し考えたほうがいいですね。 佳作一歩前で。
5 上田一眞さん 「蔓りんどうの秋」 8/24
りんどうの詩は僕にとって二度目になります。 今回はシンプルにりんどうのみを書き切っていますね。3、4連がこの詩の華でしょうか。点景のような実の赤さと淡い味わいです。「るびい」の表記がいいですね。花と実がない時は一転して蔓状となって地味になる。この連と以前の連は好対照を成しています。花と実と蔓と。ちょっと不思議な植物といった気もします。調べてみると絶滅危惧種でもあるそうな―。終連がきれいにまとまり好きですね。ほんのり淡い甘め佳作を。ひと足お先に秋の気分も味わえます。
6 小林大鬼さん 「送迎バス」 8/24
実際に大鬼さんはこの通りの光景を見ていたのでしょう。
かなりの障害がある児童です。僕の比較的近い周囲にも、こういう子がいます。この光景、母親の心配はよくわかるつもりです。
「夏の車窓は過ぎてゆく」―この1行置きがとても良いですね。全て叙景で最後のみ気持ちが述べられます。他者は何もしてやれない、ただ見守るのみ。「哀しき運命」は―事実、そうなんでしょうが―少しソフトにしてもいいかもしれないです。好みのことに属するかもしれませんが―。甘め佳作を。
7 司 龍之介さん 「龍を探す男」 8/24
はい、大変おもしろく読めました。詩ならではのモチーフであり手法です。ファンタジーであり空想譚なのですが、あたかも現実にありそうに書かれている、そこが妙味であり力量でしょう。「俺は諦めない~~感じるんだ!」まで。当事者の思いを上手く伝えています。セリフ調の書き方が凄く効いてます。司さん、書いててマジで“その気”になったかも?読んでいて、事例は違いますが埋蔵金を一生探し続ける男のことを思い出しました(こっちのほうがまだしも可能性はある?!)。終連はセリフ調から一転、語りへ。その落差の妙味。オチのようでファンタジー的終わり方がGOODですね。どういう詩であったかを見事に収容していますね。佳作です。ペンネームにも、ちなんでいる?
8 理蝶さん 「理由」 8/25
最近、進境著しい理蝶さんです。最近は相反する言葉を上手くくっつけるところに「技(わざ)」を感じています。今回のポイントは誰にとっても、そして自分にとってさえも「透明になる」ことですね。
透明になるとはどういうことか?を読み手各自が考えておくべきでしょう。僕が思うに「無私、無我、無欲」といった境地でしょうか?よく「水のような心境」とは言いますが、そんな感じでしょうか?
その媒体を「言葉探し」に求めたようです。それは理蝶さんにあっては「詩」を指すもののように思えるのです。独自の詩行が詩に浮遊感をもたらし、そこが素晴らしいので佳作ではありますが、その分、この詩の思想感はあまり伝わってこない。(思想の構造はどうなってるんだろ?)―そんな気分は少し残りました。
9 相野零次さん 「神様」 8/25
信仰心の深さを感じさせます。興味深いのは神にも人間のような表情をつけて、「私」がそれに従って思考し、しぐさをするところでしょう。ここで注目すべきは、それらの行為が自分の為ではなく、全て他者に向けて行われている点です。神の信託を受けて、その代理を果たすかのようです。それほどの思いがありそうです。背景にあるのは「我、神と共に在り」といった思想でしょうか。大変大きく広がりを感じさせます。無神論者の僕には、ちょっと及びもつかない作品でした。詩はあくまで創作の世界なので、実際の個人とのありようは、また別次元になる気はしています。タイトルは「神様」が本文にたくさん出てくるので、ちょっと別方向に持って行きたい気はしました。佳作一歩前で。
10 ベルさん 「あの夏」 8/25
唐突ですが、2連、3連です。ここまで読むと過去の回想と思いがちなんです。それ以降読むと、回想をあたかも現在のように語っているように読める。これもひとつの手法ではありますが、読み進めていくうちに、(これは全くの現在進行形だ?!)になるわけです。従って、回想的なこの2、3連だけが、この詩にとって、はた迷惑なのです。部品交換をお勧めしましょう。それさえクリアーすれば、これは詩として充分成り立つはずです。じいちゃん・ばあちゃんの様子がリアルで面白い。以降、各種情景を楽しくとらえながら、詩はしみじみとした境地に入っていく。その気分の移ろいもいいものです。主人公の少年としての初々しさも率直さもあって、詩のムードは立派に確保されているのです。惜しむらくは上記した2、3連なんです。佳作一歩前です。
11 静間安夫さん 「戦争体験」 8/26
俯瞰的に観ると、この詩の主人公は5連目に出て来る「なぜ今、その人は」の「その人」です。
次に、その人を考える語り手(静間さんの化身?)です。
ここで便宜上、前者を「A」、後者を「B」とします。すなわち―、
A……語るべきか否か、懊悩しながらも、ついに敢えて語る人。
B……Aの心理を慮りながら、その語りを受け入れ詩に書く人。
最初から4連目まではまずまず一般論で、こう思う人は数多いでしょう。もちろんAもその範疇にあり悩みます。ただ、これもある種の「論」である以上、反論はあるだろうし、「必ずしもそうではないだろう」「個人差だ」と思う人はいるでしょう―ということは、ささやかながら付記しておきたい。次に大いに指摘しておきたいのは―。
8連「若い世代に聞かせることで/彼らへの人間への信頼を/失わせることにならないか?」
9連「若い人たちの人生に対する希望に/暗い影を射すことにはならないだろうか?/もし知らずに済むことならば/あえて話す必要などあるのだろうか?」
これは詩中、Aの感慨として語られますが、僕はAに言いたい。
「それは無用な心配、杞憂です。もっと言うと、あなたは甘い、間違っている。そんなこと言ってる場合じゃない―(知らずに済む)など、もってのほかです」
否定的なことを書いてきましたが、この詩の最大に良い点を挙げます。
A⇔Bがしっかりと相互作用の中にあることです。―「C」。これはコミニケーション論謂うところの情報の送り手・受け手の条件(自由を基盤とした権利・義務)に充分にかなっています。そして「それなくして~安易に言うべきではない」と結論づけています。もしこの詩をCの条件を付けずに、ただ「安易に言うべきではない」としたなら、それこそ安易な話なんです。僕はこの詩をこの区間で全く触れなかったでしょう。そうではなくてよかったです。佳作です。最後に抜き書きします。
「戦争体験者の高齢化に伴い/戦争の記憶の若い世代への継承が/課題になっています」―「D」
これは真理であり、今を生きる僕たちに向けられた歴史の課題であります。掛け値なく、です。
常套句と決めつけるものでもなく、安易でも荘重でもなく、右でも左でもなく、老若男女でもなく、
もう時間の問題であり、なんやかんや言ってられない。これは平和への第一歩と思えるからです。
アフターアワーズ。
しかし、こういったことを僕たち一般人は四、六時中考えているわけにはいきません。その必要もありません。ただ、いつかなんとかしなければいけないのは事実です。ただ漠然と思うのは、戦後10年くらいに生まれた世代(たとえば島氏や僕や上田さん)が中継して伝えていかねばならないといった点ですね。
ところで、8月は新聞に戦争の記事がよく載ります。”8月ジャーナリズム“などと揶揄するムキもあります。でも僕はそれは違うと思う。先に書いた通り、そんなこと、毎日考えていられない。だとすれば、年に1回くらいはそれを考える期間があっていい、いや、なければならない、と思ってます。これは「D」を少しでも叶える公的具体的策と思えるわけです。たとえ「常套句」と呼ばれようが、揶揄されようが、です。
評のおわりに。
ちょっと詩の朗読会に行ってきました。詩の朗読にピアニストが伴奏をつけるという趣向です。
僕は席がたまたまピアニストの後ろだったので、彼を注意深く観ていたのですが、テクストをまるで譜面のように見つめ、扱い、詩に合った選曲をし、パーツ毎に当意即妙に反応するのです。誠実に準備したことが察せられました。僕の朗読作の時、ちょっとアーシー(泥臭い、素朴な)な部分があったのですが、そこだけ、たちまちブルースにチェンジしてくれて、僕はしばし朗読を忘れ、思わず「Yeah!」と叫んでしまいました。まさしくプロの仕事でした。 では、また。