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スレッドNo.4498

感想と評 8/20~22ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。8/20~22ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●森山 遼さん「悲しみ続く」
 森山さん、こんにちは。この作品は夜の新宿を舞台に、都会に集う人々の哀愁を描いた詩と受け止めました。「明日の天気(は)くもりのち晴れ」、「わたし(は)もう悲しい」と助詞を省略した文体は意図的なものでしょうか。舌足らずでぎこちない語り口が、悲しみというテーマに不思議にマッチしているように思います。
 「ピーピーピーピピピピピ」という「鳴き声」が何を表しているのか、よく分かりませんでした。虫でも鳥でもないような気がするし、もしかしたら何かの機械音かとも思いましたが、都会の夜を彷徨う人々の心の声なのかもしれません。それが何にせよ、この鳴き声が詩中で繰り返されることによって、都会の夜の描写の中に悲しみの主題が通奏低音のように現れる構成になっているのかと思いました。
 だとすると、そのような繰り返しを最後まで徹底してやっていただいた方が良かったかもしれません。特にこの詩の後半では一見悲しみと無関係そうな描写が続いて終わりますので、それがないとまとまりが無くなってしまう印象を受けました。たとえば最終行を「ピーピーピーピピピピピ」で締めくくるというのはいかがでしょうか。ご一考ください。
全体として、連分けをしていただくとより読みやすくなると思います。評価は佳作一歩前となります。

●喜太郎さん「ケンタ」
 喜太郎さん、こんにちは。これは初デートの様子を描いた詩でしょうか。どんな店で何を食べるのか、食にはその人の好みや性格、経済状況など様々な要素が反映されますので、デートの食事をどこにするかはお互い悩むところですね。ところが「彼女」の口から出て来たのは「ケンタッキー」。デートの場所にお洒落なレストランではなく、どこにでもあるファーストフード店を希望するところに、「彼女」の庶民的で飾らない性格がよく表現されています。
 何を食べるかだけでなく、どう食べるかにもその人の性格は表れます。「彼女」と「僕」の食べ方の違いが上手に描き分けられていますし、「彼女」が「僕」の食べっぷりに最初は驚きながらも、すぐにそれに合わせてくれる心優しさも伝わってきます。ファーストフード店の片隅で心を通わせるカップルのほのぼのとした情景がとてもよく描かれた作品だと思います。「ケンタ」や「カエル化」といった表現から、おそらく若いカップルと思われますが、青春を感じる一篇ですね。
 ところで、タイトルにもなっている「ケンタ」は「ケンタッキー」(正式には「ケンタッキーフライドチキン」)の略称ですね。この詩の本文ではこの略称は最後に一度出てくるだけで、それまではすべて「ケンタッキー」と表現されています。「ケンタッキー」が最後になってよりカジュアルな「ケンタ」に変化するのは、二人の心の距離の変化をも表していると受け取りました。だとすると、この詩のタイトルを「ケンタッキー」ではなく「ケンタ」としたのは正解だったと思います。
 全体的にとても良い詩だと思うのですが、いくつか気になった点をコメントします。まず冒頭で「僕の質問に」と始まるのに、その質問の内容がどこにも書かれていないのが不自然に感じました。もちろん、その後を読んでいけば、どこで食事をしたいかという質問だということは容易に推測できるのですが、ここは詩の舞台設定をするためにも、しっかり書いたほうが良いと思います。あくまで一案ですが、

「ケンタッキー…食べたい」
初めての二人だけの食事
どこに行きたいかと尋ねる僕に
彼女は少し照れながら呟いた

のように、「彼女」の言葉から始めるのも良いかと思います。
 もう一点、この詩は全篇連分けなしで書かれていますが、場面の転換や時間の推移を表すために、いくつかの連に分けることをおすすめします。たとえば現行3行めの「テーブルを挟んでケンタッキー」から始まる部分は、その前までのやりとりから時間的にも場所的にも隔たっているはずですので、その前は一行空けるべきだと思いますし、最終行も結論として一行空けて独立の連にした方が良いかと思います。ご一考ください。評価は佳作半歩前になります。

●松本福広さん「ディスクオルゴール」
 松本さん、こんにちは。私はオルゴールと言えば小さなシリンダー状のおもちゃのようなものしか実際に見たことはないのですが、昔はディスク型のオルゴールがかなり流行したようですね。YouTubeで実際に演奏する動画を見てみましたが、音の心地よさもさることながら、穴や突起が一見ランダムに散りばめられた金属製の円盤がゆっくりと回転していく様子が夜空を巡る星々のように見えて、とてもロマンティックでした。このディスクを「円盤に配置された星空」と喩えたのは秀逸だと思います。
 この詩で興味深いのは、タイトルからオルゴールで音楽を奏でる情景を描いていることは明らかなのに、どこにも「音」に関する描写が出てこないということです。それなのに、確かにこの詩は音楽について語っています。音楽が徹底的に暗喩化され、あるいはその物理的音響的側面をすべて剥ぎ取られることによって、かえって音楽が人の心に及ぼす影響、すなわち何らかの「世界」を創出していく様子が効果的に描かれているように感じました。音によらずに音楽の本質を描き出した、素晴らしい詩だと思います。評価は佳作です。

●秋乃 夕陽さん「或る貧困労働者の祈り」
 秋乃さん、こんにちは。この詩の語り手の「オレ」は45歳という設定ですので、就職氷河期世代の典型的な人物と言えますね。「一億総中流」と言われたのは過去の話で、現代日本社会においてますます拡大する貧困の問題は決して無視することのできない現実であり、また今そのような境遇になくても、明日は我が身という人も多いのではないかと思います。その意味で、この主題を取り上げてくださったことに感謝します。ここに描かれている「祈り」に共感する人も多いのではないでしょうか。
 このように、本作品のテーマの重要性とそれを取り上げた作者の真摯さについては疑問の余地はありません。またそこで語られているメッセージも、まったくの正論です。であればこそ、それを散文ではなくあえて詩という形式で表現するためには、並々ならぬエネルギーが必要になってくると思います。なぜなら、詩とは世界に対する新しい視点を提供し、読者の常識的な期待を裏切って新鮮な方法で現実を見つめ直す機会を与えるものだと思うからです。少なくとも私にとって、良い詩とはつねにそのような「ひねり」や「驚き」「逆説」といったものをどこかに有しているものです。茨木のり子さんの表現を借りれば、「言葉が離陸する瞬間」とも言えます。けれども、大きな社会問題に対する正論をストレートに述べようとする時には、これはかなり難しいことだと思います。
 そのような意味で、この作品で描かれる「オレ」の姿やその言葉には、そういった詩的な「驚き」や「言葉の離陸」というものは残念ながらあまり感じられませんでした。非常に失礼な言い方になってしまいますが、どこかで見聞きしたことのあるような既視感を持ってしまうのです。語られているメッセージには賛同する他ないのですが、詩としてのインパクトはあまり感じられませんでした。別の言い方をすれば、扱っている主題があまりにも重くて大きいために、詩の方が力負けしてしまっていると言えるかもしれません。一案ですが、説明的な長い独白を省いて、貧困に苦しむ人々の日常生活のごく小さな一コマの具体的な描写に集中するなら、同じテーマでも新鮮な切り口で見せることができるかもしれないと思います。
 いろいろ厳しいことを申し上げてすみません。繰り返しますが、これは秋乃さんの問題意識や真摯さ、メッセージの妥当性とは全く無関係で、あくまで「詩作品」としてどうかということです。個人的には、この主題についてさらに詩作を重ねて言ってくださることを願っています。評価は佳作一歩前となります。

●温泉郷さん「街路灯」
 温泉郷さん、こんにちは。老朽化した街路灯がある日突然倒れて撤去された――要約してしまえば、たったこれだけの小さな事件を描いた作品ですが、なぜか強烈なポエジーを感じる不思議な作品ですね。
 ニュース報道の引用のような文体で、事故の起こった様子やその原因究明について、客観的に淡々と語られていきます。この抑えた筆致がとても効果的だと思います。
 この詩の中心は、倒れた街路灯の電球が割れずに灯り続けたというところでしょう。私は電気関係に詳しくありませんので、街路灯が倒れても点灯し続けることが実際にあるのかどうかは分かりません。けれどもこの作品の中では、倒れてもなおアスファルトを虚しく照らし続けるその姿は、何かを象徴していると思われました。長年社会に尽くしてきた人物がついに力尽きても、その努力が報いられることなく忘れ去られていく様子を表しているのかもしれません。
 作中で繰り返される「29年」という期間にも、何らかの象徴的な意味が込められているような気がして、いろいろ考えても分かりませんでしたが、そういった興味を呼び起こすこと自体、詩として成功していると思います。評価は佳作です。

●紫陽花さん「耳元にはたこくらげを」
 紫陽花さん、こんにちは。改めまして免許皆伝おめでとうございます。
 紫陽花さんの作品は海が出てくるものが多いですが、今回もその一つですね。たこくらげを知りませんでしたので調べてみましたが、丸い可愛らしい形で、水族館でも人気のあるくらげのようですね。一般には褐色をしているものが多いようですが、中には緑色や、この詩にあるような青色をしているものもあるということです。
 さて作品ですが、まず「きっとまたこの夏を私は忘れてしまう」という冒頭の一行がとても良くて、これだけで詩の世界に一気に引き込まれました。好きなものなら忘れないかというと必ずしもそうではなく、とても愛着があるはずのものでも、日々の忙しさに追われていつの間にか忘れてしまい、ふとした機会にそれに気づいて愕然とすることはありますね。「私」にとって夏の海はどうしても忘れたくない、大切なものであることが伝わってきます。
 そんな「私」がいつものマルシェに野菜を買いに行くと、ふだんある花屋の代わりに移動販売店が出店していて、しかもその売り物は「夏の海」。店の男性は「私」の眼の前で「店先に海を並べ始めた」……。日常から非日常への移行がとてもスムーズで見事です。店先で海を売るというアイデアも秀逸ですね。
 そして「海」の描写も砂やシーグラスから始まって様々な海洋生物が現れて楽しいです。視覚と聴覚に訴える描写によって、夏の海のイメージが鮮やかに浮かび上がってきます。(個人的にはここに嗅覚の要素も加えて、磯の香りの描写を入れても良いかなと思いました。)またこの部分にはオノマトペが多用されています。とくに独創的なものはありませんが、軽快なテンポが明るく楽しい夏の海の雰囲気を創り出すのに役立っていると思います。
 店先の「海」で出会ったたこくらげがイヤカフになり、「私」の耳元でほのかな海鳴りとともに揺れているという終連も良いですね。最終行「この夏を忘れませんように」が詩の冒頭と対応していて、着地もばっちりです。
 夏らしい明るく爽やかな一篇で、とても気に入りました。この作品が、私が評を担当させていただく最後になりますが、最後にふさわしい、読み応えのある作品をありがとうございます。評価は佳作です。



以上、6篇でした。今回も素敵な詩との出会いを感謝します。私事ですが、先週土曜日は横浜詩人会のイベントで朗読させていただきました。MY DEARの三浦さん、井嶋さんともご一緒できて、今年の夏を締めくくる良い思い出になりました。みなさまの夏はいかがだったでしょうか。

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