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スレッドNo.4507

清人伯父のこと  上田一眞

一眞さん あなたは
清人さんのことを
快く思っていないでしょうね  *1*2

確かに彼がしたことは あなたの
結婚という晴れの門出にケチをつける
伯父らしくない行為だし
良くないことです

それでもね 
人が何と言おうと どう思おうと 
私たち夫婦は
清人さんに足を向けて寝れないの…
これから話すことを 
しっかりと受け止めて下さいね  



あなたもご存知のように
主人隆志は戦前 戦中 戦後を通して  *3
地質調査を専業とする会社を営んでいました  

戦前 ある大学からの要請を受け
朝鮮北部山岳地帯で行なう大規模ダム開発
これに付随する地質調査に携わりました

拠点としたのは朝鮮半島随一の大河
鴨緑江の上流部で
物凄い僻地 鹿や猪しかいない
名もなき無人の荒野です

一番近い朝鮮人の部落でさえ
五里も離れていました
大きな鬼胡桃の木がある丘陵地の麓に
私たち夫婦は居を構え
生活を始めたのです

そして七年の歳月が流れ
子どもも授かって四人家族となりました

長く続いた戦争が終わり
邦人が一斉帰国する運びになったことは
ダム建設を担ったゼネコンから
知らされました
戦が終わったことに安堵すると同時に
途方に暮れましたよ
ここは内地に引き揚げるには余りにも不便
極めつけの僻地です

まるで様子が分からないまま
気がついたときには 
会社が用意した最後の撤収バスも出た後でした
ダム関係者は散り散りになって
私たちだけ取り残されてしまいました



匪賊が横行する土地柄です ある日
私たちの住む小屋は
赤匪即ち共産党軍に包囲されました
地質調査用のボーリング機材が狙われたのです
それに輪をかけて
食料が尽きていながら調達することも叶わず
困り果てていました

赤匪が侵入しようとしたとき

 バァン!

一発の銃声が轟き 賊たちは
蜘蛛の子を散らすように逃げて行きました

馬に乗った
大柄な男が納屋の前まで入って来ており
私は馬賊と思い
恐怖で震えあがりました
すると男は銃を降ろして
にこにこ笑い

 やぁ 義姉さん
 兄貴はどこですか?

私はまじまじとその髭面を見て
まあ 清人さんじゃあないですか
どうして…ここへ?

 迎えに来ました

彼の言葉に私は本当に驚きました
主人の弟 清人さんは武装解除された
北支方面軍を離れ
郷里の山口県に帰って来たばかりです

それなのに
兄一家が未帰還だと知って
直ちに行動を起こし
危険を顧みず
玄界灘・朝鮮海峡を渡って
混乱する半島に迎えに来てくれたのです

聞けば
釜山から貨車に乗って北上し
義州近辺で馬を調達
鴨緑江河畔を東へと遡って来た
運良く銃も闇で手に入ったから
ノロジカを撃って食料にしたと言います

私たちにはもう食べるものがなかったので
清人さんが持って来た
ノロジカの肉は
貴重な食料となりました



北辺のこの地からどうやって脱出するか
清人さんが集めた情報は貴重でした

 今の時期
 朝鮮北部の港から引揚げ船は出ていないようだ
 内地へ帰るには 
 南の釜山か仁川迄行かねばならない
 釜山は遠くてとても辿り着けまい
 問題は三八度線越えだ

懸念はあるが
私たちは仁川を目指すことにしました
ボーリング機材は泣く泣く廃棄し
主人は国旗や関連書類をすべて焼却

私は ドンゴロスで作った上着をはおり
モンペをスボンに履き替えて
脚にゲートルを巻きました
靴はありませんから地下足袋です
そして
バリカンで頭をボウズに刈り上げ
胸にサラシを巻いて
男に姿を変えたのです

北鮮を占拠した露助どもが群狼と化して  *4
婦女子を狙い
強姦や強盗まがいのことをする
とても危険な状況だと聞いたからです

馬に簡便な車を括り付け
まだ幼い二人の子どもを
にわか馬車に隠して
小屋を後にしました

長女は
いつまでも鬼胡桃の木を見ていました
きっと思いが残ったのでしょう

満鮮国境を流れる鴨緑江に沿って
川下へくだりましたから
この一帯を占領している
ソ連軍の動向が気になります
彼らはシベリアに送る日本人を捕まえています
また土匪の襲撃も何度か受けました

トラブルが起こる都度
清人さんは持っていた時計や服を渡すなど
巧みに振る舞い
あるいは銃で威嚇・防戦して
私たちを守ってくれました

日に日に
日本人に対する感情が悪化してるときですから
本当に豪胆な人です

食料も清人さんが狩りをして
ノロジカや野兎を確保
また農民から唐黍を分けてもらっていたので
私たちが飢えることはありませんでした
まさに八面六臂の活躍です

満州や北鮮各地から徒歩で帰国しようとして
寒さと空腹で行き倒れ
餓死した人は多いと聞きます
私たちはなんと幸運であったことか

やがて平野部を踏破して
開城に到着
案の定
三八度線をソ連軍が封鎖していましたが  *5
露助の目を盗んで
夜陰に紛れて突破し仁川に着きました

蒼い海が見えたときは本当に嬉しかった
苦しい逃避行ではありましたが
清人さん持ち前の明るさに
私たちは救われ
ここまで辿り着くことができたわけです

その後 時を待たずして
貨物船で渡海し佐世保に上陸
五人は無事
郷里山口県・大河内村に帰ることができました
子どもたちには初めての内地です



私たち家族は
清人さんから受けた恩を
決して忘れることができません
彼がいなかったら
一家全滅
北鮮の荒野で野垂れ死んでいたでしょう
ぞっとします

一眞さん
どうか私たちに免じて
清人さんの愚行を許してやって下さいね

 


*1 本作は母の兄嫁(長兄の妻)を語り部としている
*2 清人 母の次兄
*3 隆志 母の長兄
*4 露助 ソ連兵・ロシア人の蔑称
*5 北緯三八度を境に以南は米軍が占領

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