怨念 秋乃 夕陽
熱い湯船に浸かりながら
昼の出来事を思い出す
病院の帰りに
行きつけの喫茶店に立ち寄った頃の話
私はお気に入りのコーヒーを片手に
瀬戸内寂聴氏が現代語訳した源氏物語を読んでいた
そこへ現れたのは私にとっては見慣れぬ女性
歳の頃は二十代後半から
三十代前半といったところか
私が座るカウンター席から一つあいた席に座り
カウンターを挟んで差し向かいにいる
その客と同い年ぐらいの若い店主に
まるでどっと流れ落ちる滝の如く大声で話し始めた
ディケンズがどうとか昔は演劇をやっていたとか
結婚して子供の成長が楽しみだとか
まるで麻薬を飲んだような状態になったとか
詳しくは聞き取れないが
ところどころ漏れ聞こえてくる
それでも知らないふりをして物語を読み耽っていた
時間が経つのも忘れ熱中していると
あっという間に時間は過ぎて
ハッと気づいて
スマートホンの画面の時間表示をみた頃には
十二時を少しまわった頃になっていた
母親に十二時半には帰ると伝えていたのを思い出し
慌てて本をカバンにしまい
コーヒーカップに残った冷めた珈琲を飲み干した
カバンと財布を持ちながら椅子から立ち上がった時
ガタッという音を聞きつけて
例の客の話を聞いていた店主が顔を上げた
「ありがとうございました」
店主と店員の声が明るく重なり合い
私に向けられた顔は心なしかホッとした表情
「うるさかったんじゃないですか?」
会計を済ませようとレジへと急ぐ私の背中越しに
思いがけぬ言葉がかけられる
「あ、はいはい」
約束の帰宅時間ばかり気にして
気持ちだけが急いでいた私は
声の主を確認する余裕すらなく
努めて明るい声で曖昧な返事をしてしまってから
「そんなことないですよ、大丈夫ですよ」
そう言いつつ振り返った瞬間
じっとこちらを見つめる客の目に
思わず背筋がぞくっとした
まるで源氏物語の夕顔に出てくる怨霊が
恨めしい目つきで光源氏を睨みつけたような
会計を済まして喫茶店を出てもガラス戸越しから
まだこちらを恨めしげに見つめている
通常ではそこまで恨んだりはしないだろう
きっと正常な精神の持ち主ではないのだろう
そう思うと哀れにも思うが
夕顔の女は頭の中将の北の方から恨みを買って
うら寂れた五条の別邸に逃れ
光源氏と出逢ったがために
彼を慕う怨霊から呪い殺され
私も職場で嫌がらせを受けてそこから逃れ
時空を超え同じ魑魅魍魎の住う都で
夕顔の女のように
いままた所在なき恨みを買うのかと思うと
空恐ろしくなってブルっと体を震わせた
唐突に思い出された湯船の中から
たちのぼる湯気がゆらゆらと揺れて
じっと二つのまなこがこちらを見つめていた