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スレッドNo.4600

怨念  秋乃 夕陽

熱い湯船に浸かりながら
昼の出来事を思い出す

病院の帰りに
行きつけの喫茶店に立ち寄った頃の話
私はお気に入りのコーヒーを片手に
瀬戸内寂聴氏が現代語訳した源氏物語を読んでいた

そこへ現れたのは私にとっては見慣れぬ女性
歳の頃は二十代後半から
三十代前半といったところか
私が座るカウンター席から一つあいた席に座り
カウンターを挟んで差し向かいにいる
その客と同い年ぐらいの若い店主に
まるでどっと流れ落ちる滝の如く大声で話し始めた

ディケンズがどうとか昔は演劇をやっていたとか
結婚して子供の成長が楽しみだとか
まるで麻薬を飲んだような状態になったとか
詳しくは聞き取れないが
ところどころ漏れ聞こえてくる
それでも知らないふりをして物語を読み耽っていた

時間が経つのも忘れ熱中していると
あっという間に時間は過ぎて
ハッと気づいて
スマートホンの画面の時間表示をみた頃には
十二時を少しまわった頃になっていた
母親に十二時半には帰ると伝えていたのを思い出し
慌てて本をカバンにしまい
コーヒーカップに残った冷めた珈琲を飲み干した

カバンと財布を持ちながら椅子から立ち上がった時
ガタッという音を聞きつけて
例の客の話を聞いていた店主が顔を上げた
「ありがとうございました」
店主と店員の声が明るく重なり合い
私に向けられた顔は心なしかホッとした表情

「うるさかったんじゃないですか?」
会計を済ませようとレジへと急ぐ私の背中越しに
思いがけぬ言葉がかけられる

「あ、はいはい」
約束の帰宅時間ばかり気にして
気持ちだけが急いでいた私は
声の主を確認する余裕すらなく
努めて明るい声で曖昧な返事をしてしまってから
「そんなことないですよ、大丈夫ですよ」
そう言いつつ振り返った瞬間
じっとこちらを見つめる客の目に
思わず背筋がぞくっとした

まるで源氏物語の夕顔に出てくる怨霊が
恨めしい目つきで光源氏を睨みつけたような

会計を済まして喫茶店を出てもガラス戸越しから
まだこちらを恨めしげに見つめている

通常ではそこまで恨んだりはしないだろう
きっと正常な精神の持ち主ではないのだろう
そう思うと哀れにも思うが
夕顔の女は頭の中将の北の方から恨みを買って
うら寂れた五条の別邸に逃れ
光源氏と出逢ったがために
彼を慕う怨霊から呪い殺され
私も職場で嫌がらせを受けてそこから逃れ
時空を超え同じ魑魅魍魎の住う都で
夕顔の女のように
いままた所在なき恨みを買うのかと思うと
空恐ろしくなってブルっと体を震わせた

唐突に思い出された湯船の中から
たちのぼる湯気がゆらゆらと揺れて
じっと二つのまなこがこちらを見つめていた

編集・削除(編集済: 2024年09月29日 17:39)

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