肥前山口 上田一眞
こころの闇に棲む
黒い犬
〈うつ〉という名の狂犬に
追いたてられ
列車に飛び乗った
仕事を放り出し
家庭を顧みず 独りよがりな
各駅停車の鉄道の旅
旅の途中
千切れたこころを掻き集めようと
藻掻きに藻掻く
医者には止められているが
もうスコッチを一本あけてしまった
ごとん
ごとん
ごとん
レールが軋み
うとうとしていると
列車が止まる
肥前山口 *1
ああ ここは…
脳髄はたちまち九歳のわらべに
立ち戻る
*
年一回の家族旅行
今年は九州だ
博多発長崎行きの急行列車
四人で対面式の席に座る
床に新聞紙を引いてもらうと
ここ座れるね
みいちゃんの席よ
幼い妹は無邪気にはしゃぐ
到着する前の車内案内
次は 肥前山口〜
聞き慣れない九州訛が色濃く
響く
ここは父の恩師が住む街
師を訪ねる旅に
父が笑い
母が微笑む
あり余る幸せの旅
そして 僕は
燕舞う
豊饒の大地
緑の佐賀平野を満喫する
*
僕には温かい寝床も
身を包む団欒もない
孤独の花を持つ左手が微かに震える
崩れ落ちた追憶
せつなさがただよい
帰ることのできない過去に
おぼろな自分が見える
なぜ肥前山口で下車?
ただ 佐賀平野のクリークが見たくなった
親子四人で訪れた
和蘭芥子が咲き
小鮒泳ぐ里
幸せを感得できた大地
わがこころの狂い犬に怯えるいま
緑豊かな自然と
確かな幸せの記憶が
僅かな慰安を与える
南への旅路に
死への願望が霧消したとき
僕は思わず落涙した
*1 肥前山口駅 現江北駅(佐賀県)