再審 静間安夫
どこかで水滴が落ちているらしい。ポタッ、ポタッ、といつ果てることもなく続いている。その単調な音を聞いているうちに、しだいに意識がはっきりしてきた。どうやらわたしは、薄暗い三畳ほどの独房、それも拘置所みたいな施設の独居房に入れられているようだ。今、横たわっている粗末な寝具の他に、便器、机、流し台があるため、身動きできる空間はごくわずかだ。流し台の蛇口から水は漏れていないので、きっとあの音は、この所内のどこかから廊下伝いに聞こえてきているのだろう。廊下とは鋼鉄のドアで隔てられていて、ドアにはめ込まれた鉄格子から廊下の電燈の光が独房に差し込んでいる。
今、いったい何時頃だろう?夜中なのか、それとも明け方なのかさっぱりわからない。せんべい布団の上に身を起こし、まんじりともしないで座り込んでいると、やがて鍵束をじゃらじゃらとさせながら、刑務官らしき人間が数人近づいてきた様子だ。ふと、その足音がすぐ隣の独房の前で止まった。
「301号、用意はできているな?」。
その声が静かな空間に響き渡ったあと、ドアが開錠されて、独房から人が連れ出されていく気配がした。それも半ば無理やり、力づくで…。というのは「いい加減にしないか!」とか「往生際が悪いぞ!」とかいう言葉に加えて「後生だから、どうか見逃してください」などの声が、かわるがわる聞こえてきたからだ。
いったいどこに連れていかれて何をされるのだろう?わたしの独房にも、いつか彼らがやってくるのだろうか?すっかり不安な気持ちになっていると、ちょうどそのとき、目の前の鋼鉄のドアがノックされたので、ビクッとして思わず心臓が止まりそうになった。
「302号の××さん、教誨師の○○と申します。初めてお目にかかります」。
そう言って、ドアを開けて入ってきたのは、黒い袈裟に身を包んだ、痩せて長身の男だった。青々とした坊主頭に度の強い眼鏡をかけている。年のころは40前後に見える。
「さっきは少し驚いたのではありませんか?お隣の部屋の人が、たまたま今日『執行』されるようで」
「『執行』って、いったい何を『執行』されるんですか?」
慌てて尋ねるわたしを、教誨師と名乗る男は訝しげな顔をしてしばし見つめたあと、質問には答えずに、机の傍らの畳の上に、わたしと向き合うように正座した。
「このごろよく眠れますか?食事も普通に摂れていますか?」
「大丈夫、よく眠れているし食欲も十分あります。そんなことはいいですから、わたしの質問に答えて下さい。『執行』っていったい何のことですか?」
すると、その男はわたしから目を逸らし、誰に言うともなくこう呟いたのだ。
「かわいそうに…死刑を目前にして、精神のバランスをすっかり崩してしまったようだ。ひょっとすると、自分がどんな大罪を犯したのかさえ記憶から消えているかもしれない」
「ちょっと待って下さい!なぜわたしが処刑されなきゃならないんですか?何も悪いことはしていないのに!身に覚えのない罪で死刑になるなんて冤罪もいいところじゃないですか!」
わめきたてるわたしを前にして、きっと、どこかのお寺の住職で、かつ教誨師も兼ねているのだろう、その男はいかにもベテランの宗教家といった雰囲気で
「やっぱり思った通りだ。こういったケースにはとっておきの説得方法がある」
と独り言を呟くと、わたしに向き直ってこんこんと話し始めた。
「いいですか、あなたがご自分の罪に身に覚えがないならそれで結構。安心して下さい。なぜなら、死者をお裁きになる閻魔大王様は、そうした場合に備えて、充実した再審制度を構築しておられるからです。もともと大王様は人間たちが下す判決など、大して信じておられません。ご存知のとおり、日本でも裁判の三審制を採用しておりますが、にもかかわらず相変わらず冤罪が引き起こされており、しかも一度刑が確定してしまうと再審への道のりは限りなく遠い、というのが実情です。ですから慈悲の心にあふれた地蔵菩薩様の化身であられる大王様は、無実の人間が死んだ後も地獄の業火に焼かれずにすむよう、閻魔庁直属の優秀な弁護士の助けを借りて、その人間が現世で受けた刑罰を吟味し直し、もし誤りがあれば無罪として極楽に入れるよう手筈を整えてくださるのです。どうです?安心しましたか?えっ、どうしてわたしが現世にいながら閻魔大王様のお裁きについてこんなに詳しいか、ですって?よくわたしの仕事を想像してみて下さい。檀家の方から『家族の臨終が近い』と連絡を受けて大急ぎで駆けつけたところ、そのご家族が三途の川を渡る一歩手前からこの世にもどってくる、息を吹きかえす、といった臨死体験に立ち会ったことは、一度や二度ではありません。そうした体験をお持ちの方々に、あの世にいたわずかの時間に聞いた話を書いて頂き、それらをつなぎ合わせると、今お話ししたような再審制度が設けられていることがわかったのです。どうです、安心したでしょう!ですから、どうか心静かに刑場の露と消えて下さい。お願い致します」
「そんなおかしな論法で煙に巻かないでください!だいたいわたしが死ななければいけないことに変わりないじゃないですか!あっ、ちょっと待って下さい。都合が悪くなると逃げ出すんですか?」
教誨師は必死に食い下がる私を一顧だにせず、素早く独房を出るとドアを施錠し、瞬く間に廊下を立ち去っていった。破れかぶれになったわたしは、鉄格子を握りしめドアを前後に激しく揺さぶったが、そんなことで外に出られるわけもない。その上、例の水滴のポタッ、ポタッ、という音が、妙にはっきりと、いっそう不吉に聞こえ始め、耐えられなくなったわたしはとうとう恐怖の叫び声を上げてしまった―
―その途端、アパートの自室でちゃぶ台にもたれ掛かって眠り込んでいる自分自身に気がついた。どうやら再審制度について書かれた新聞記事を読んでいるうちに寝入ってしまったらしい。夢の中でしきりに聞こえていたあの音の原因もわかった。台所の水道の蛇口をしっかり閉めていなかったのだ。
まだ夜明けまでには間がありそうだ。蛇口を閉め直して布団にもぐりこもう。今度は多少なりとも楽しい夢を見るとしよう。