般若の微笑み 上田一眞
いつ頃からだろう
週末に一度
お昼をともにするようになった
実家の暗い応接間で
継母と向き合いお弁当をいただく
喋ったことを
ものの十分も経たぬうちに忘れてしまうほど
耄碌した老女だが
昔の記憶だけは
頭のなかで妖しく蠢いている
今年の十二月で 齢九十四に達する
愛憎ないまぜの五十五年間
修羅の道を歩んだわれらの葛藤を顧みて
思わず溜め息が漏れる
この部屋暗いね と囁き
雨戸を開けた
ほどなく淡い光と
優しい香りの金木犀にふわりと包まれる
お庭いじりが好きな
亡くなったお父さんが隅っこに植えたのよ
金木犀 いい香りでしょ
お父さんはいい人だったけど
お人好しの見栄っ張りでね
あなたが高校生のとき
株屋に唆されて信用取引に嵌り
すってんてんになったのよ
私しゃ悔しゅうて株屋に怒鳴り込んだ
でも後の祭り
一緒になった次の年よ
あなたは懐いてくれないし
みいちゃんは泣いてばかり *1
ほんとに困り果てた
人生の終焉を迎え
永の草鞋を脱ごうとしている継母
心のなか
哀しみや痛みは枯れ
どこかサバサバした感じがする
ふと
過ぎた時に流されていた恩讐が
むくむくと蘇った
罵声を浴びせられ
湯呑み茶碗を投げつけられて
家を飛び出し
傘もなく ずぶ濡れになった日
涙が止まらなかった
異郷の岬 渚をひとり彷徨い
実母の横死と
父の再婚という
予期せぬ運命を呪った
忘れることでしか解決方法のない
苦い思い出が
いくつも
走馬灯のように脳裏を巡る
この人を
愛することは死ぬまでないだろう
たが
この終の棲家で
永遠(とわ)の黄泉路に旅立つまで
静かに見守ってやろう
それが人としてなすべき道ではないか
父の植えた金木犀が
継母と私の身を
優しく包む
見詰めると
恍惚のなかにかけ戻り ほどなく微笑んだ
それは
老いた般若の笑みに違いなかった
*1 みいちゃん 一眞の妹