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スレッドNo.4706

般若の微笑み  上田一眞

いつ頃からだろう
週末に一度
お昼をともにするようになった
実家の暗い応接間で
継母と向き合いお弁当をいただく

喋ったことを
ものの十分も経たぬうちに忘れてしまうほど
耄碌した老女だが
昔の記憶だけは
頭のなかで妖しく蠢いている

今年の十二月で 齢九十四に達する
愛憎ないまぜの五十五年間
修羅の道を歩んだわれらの葛藤を顧みて
思わず溜め息が漏れる

この部屋暗いね と囁き 
雨戸を開けた 
ほどなく淡い光と
優しい香りの金木犀にふわりと包まれる

 お庭いじりが好きな
 亡くなったお父さんが隅っこに植えたのよ
 金木犀 いい香りでしょ

 お父さんはいい人だったけど
 お人好しの見栄っ張りでね
 あなたが高校生のとき
 株屋に唆されて信用取引に嵌り
 すってんてんになったのよ

 私しゃ悔しゅうて株屋に怒鳴り込んだ
 でも後の祭り
 一緒になった次の年よ
 あなたは懐いてくれないし
 みいちゃんは泣いてばかり    *1
 ほんとに困り果てた

人生の終焉を迎え
永の草鞋を脱ごうとしている継母
心のなか
哀しみや痛みは枯れ
どこかサバサバした感じがする

ふと
過ぎた時に流されていた恩讐が
むくむくと蘇った

罵声を浴びせられ
湯呑み茶碗を投げつけられて
家を飛び出し
傘もなく ずぶ濡れになった日
涙が止まらなかった
異郷の岬 渚をひとり彷徨い
実母の横死と
父の再婚という
予期せぬ運命を呪った

忘れることでしか解決方法のない
苦い思い出が
いくつも
走馬灯のように脳裏を巡る

この人を
愛することは死ぬまでないだろう
たが
この終の棲家で
永遠(とわ)の黄泉路に旅立つまで
静かに見守ってやろう
それが人としてなすべき道ではないか

父の植えた金木犀が
継母と私の身を
優しく包む

見詰めると
恍惚のなかにかけ戻り ほどなく微笑んだ
それは
老いた般若の笑みに違いなかった





*1 みいちゃん 一眞の妹

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