評、10/11~10/14、ご投稿分。 島 秀生
明日は投票日ですので、皆さん、民意を反映させに行きましょう。
ちなみに、20時からは開票速報になるので、大河ドラマは繰り上げで19:10からの放送になります。
(なんで宣伝してんねん)
ところで、ひと昔前は、候補者がよく有権者に向かって「皆さんの清き一票を」なんて言っていましたが、
今回は「アンタこそ、清くなれよ」と、言い返してやりたい選挙であります。
●温泉郷さん「千客万来軒」
ディスプレイやテーブルなどの粗末で古い感じ、また、飲食店が並ぶ中でそこだけ入る人が少ないという感じの店については、私の中でヒットするものがあり、夫婦だけでやってるような古いお店を想像するのですが、
こうしたお店には得てしてアットホームな良さがあるものなので、それを想定して読むと、「何もやる気がしない」の詩行も、アットホームにくつろぎすぎたから、やる気がしないと解釈でき、そこの意もちょうど括れてしまうのですが、
どっこい、「アットホーム」で括れないのが、この詩行で、
黙って 放心したように
ゆっくりと
何かを食べていた
このフレーズがしかも二度、繰り返されます。意図的です。
ここがちょっと謎なんですよね。
アットホームな食べ物を懐かしんだり、喜んだりしてる様子ではないんです。悪い意味に取るなら、オーダーした食べ物が、オーダーした形を成してなくて、あっけに取られながら、あまりうまいとは思えないものをがまんして食べている図と、受け取れないこともないことはないのですが、
表現方法として、現状そちらの意には受け取りがたくあり、むしろ何か魔力のあるものでも食べさせられているような感じで、朦朧としてると読めます。もしや、あと脱力するのも、魔力の故かもしれません。
また、となると、この店の存在自体が不可思議なもの、幻の店のようにも思われてくるのです。
そうした展開もアリはアリなのですが、この詩はそちらに読むようには用意されてないと思える。そう読むには、他の部分があまりに古いお店にありがちなもので、包まれすぎているので、このフレーズの異質感だけが突出して感じるものでした。
良い意味で不思議さが加わってる、というよりは、私は突出感の方が気になりました。
とりわけは、
入ってもいいよ
入らなくてもいいよ
や
どうしても
すりガラスの隙間から
店の中を覗いてしまう
の、どっちでもいいよの中途半端スタンスが取れてしまうところが、魔力的スタンス(引き込んで離さない)とは相反してると感じられてならない。
わざと一点、謎を作るというのはアリなんですが、この詩においてはそれが仕掛けと合ってなくて、プラスでなくマイナスに働いてる感がします。たぶん、この詩はマッスグに書いてもらった方が良くなると思います。
・店に清潔感がないし、料理の盛り付けもパッとしないが、食べるとうまい
・あまりうまいとはいえないが、店のおじさん・おばさんを見てるとなごむ。あるいは店の雰囲気がなごむ。
・うまいとは言えないのだが、昔の味がして、郷愁がわく。
・あまりのまずさがクセになる???
なんとなく、このへんのどれかに落として欲しかった気がしました。
それにしても、中華料理屋って、そんなにハズレはないもんなんですが、その店はハズレなのかしら?? 珍しいですね。もうコックがいなくなってるのでは?
それにしても「千客万来軒」とは皮肉な名前ですね(…先客おらん軒やな)
秀作にとどめますが、まだ良くなる要素をもった作品です。
●相野零次さん「しあわせ」
うーーん、言ってることは賛同しかないんですけどね。
こういう命題はついつい説教がましいものになりがちなので、説教がましくならないようにする、というのがポイントです。
その意味で、3~5連についての言葉はもうちょっと集約したい。
最後の2連についても集約するか、終連を削除するか、した方がいいと思える。
論述部分が続いてしつこくなると、説教がましくなるので、なるべく話のポイントを押さえて、控えめにするのが肝要です。
そして、2連のような具体アイテムがある連が、後半にもぜひ欲しい。
そういうものも交えつつ語ると、説教がましさを回避できます。また、そうした方が説得力も増すのです。(逆説的なんですが、実際そうなんです)
あるいは、もしも自身の経験的なものがあるなら、例として自身のことも語りつつ、自身の恥もさらしつつ、そこから論述にもっていくと、説得力が出ます。
くれぐれも、ただ論だけを置かないことです。自分にとってはプロセスを経て得た重要な結果であっても、他者の目からは、ただ論だけ突きつけられるというのは、空虚なものに見えたりしますので。
この詩、言ってることは良いこと言ってられるんですが、以上の意味合いにおいて詩後半の工夫が足りないと思える。半歩前とします。
●秋乃 夕陽さん「暗転」
蒲団の上で、夢を見てるような、夢ではないような感じで、リアルの世界の問題を描くというストーリーはいいと思います。全体構成はできています。
ただ、ちょっとディティールの部分で引っ掛かる部分はあります。
3連はヨルダン川西岸の話に思う。
国連の決め事を破って、イスラエルが入植地をどんどん広げている。その入植者に軍も協力していて、パレスチナの住民を銃で追い出したり、無実なのにあらぬ罪をきせて、しょっ引いたりしている。あきらかに軍が加担して、入植地を広げている。ガザで攻撃してるのと同じマインドでもって、パレスチナ人を人間扱いしていない。犯罪者に対するがごとくに、銃を向け、パレスチナ住民を追い出していっている。家をつぶして、イスラエルの居住区に変えていっている。もはや何をしてもいい相手だと思ってる。国連もその行為を非難しているが、イスラエルは意に介しない。
ただ、ヨルダン川西岸の場合、空爆したり、砲を打ち込んだりまでは基本していないし、何かあればすぐ撃つぞ、の姿勢ではあるが、最初から住民に対し手当たり次第に銃を撃って回ってるわけではないので、そのへんの情景は、ガザと混ざり込んでいると思える。
まあ、夢なんだから混ざり込んでもいいだろうとも言えるが、風刺性を保ちたいなら、混ぜない方がいい。
2連は、3連に対する陰と陽だと思えるので、にぎやかで晴れやかな様子が描かれて、ポジションとしてはそれでいいのだが、「ヨーロッパの街中」のセットの意がわからない。ガザにしても、ウクライナにしても、ヨーロッパではないので、どういう意図でヨーロッパを持ってきてるのか、(作者的になにか意図があったとしても)読者サイドとしてはまずわからない。わかることは困難。
対照性ということであれば、ガザやウクライナの平和な時代を描いた方が、対照性としてはわかりやすい。そこが描きにくければ、無国籍的にしておいた方がまだ良い。
いずれにせよ、「ヨーロッパの街中を再現したセット」の語はない方がよいと思います。
あと、終連の、
枕を土台にして俯き加減に頬杖をついていた
はOKなんだけど、
初連2行目の、
布団の上で俯きながら枕に頬杖ついて上半身浮かせ
これはちょっと頂けない。これを全部満たそうと思ったら、かなりアクロバット的なことになる。
まず「上半身」といっても、上半身のさらに上半分くらいしか浮いてないはずだから、「上半身浮かせ」の言葉で表現しない方がいい。
また、頬杖をついた時点で斜めになるので、「俯き加減」は良くても、「俯きながら」は方向が45度くらい違ったものを並べてることになる。この2行目はえらく難解なことになっている。
蒲団の上に突っ伏して 枕に頬杖をついている
ここは、これくらいでいいと思います。分けることで、動作を順に追わせることもできます。
また、詩の出だしというのは、スルスルスルっと滑らかに読みが入れるのが良く、出だしから蹴躓かせない方がいいのです。そこで止まらずに、早く先を読ませたいのだから。
なので、こういう捏ねた詩行を、迂闊に出だし置くのは禁物です。
まあ、しかしたくさん書いてくれているので、そこが良しで、いくつか引っ掛かった部分があったとしても、傷は相対的に軽微となります。
あらかたは良し。秀作を。
●上田一眞さん「岬にて」
この詩は、先の、お母さんが不運な事故死をされた詩の続き、というポジションで読ませてもらいました。あの詩を踏まえて、この詩を読むべきところがあるので、連作または連作的ポジションの詩、とするのが良いでしょうね。
逆な言い方すると、あの詩を踏まえない場合には、単独では意図がわかりにくい部分があり、また誤読懸念もあり、評価は少し下がることになるでしょう。
特に、
無言の雨に峻拒され
ずぶ濡れになりながら 岬にて
滴る雨を 振り払う
のシーンは、事故後、間もない時のことであろうと読むと、心が切られるように痛むものであります。関連が欠かせないシーンでありましょう。
いちおう、「時には母のない子のように」の曲を出してること自体に、この曲が流行った時代ということで、その時期を示唆してくれてるとこはあるのですが、いまいち不足気味であり、個人詩集を出す時などには、先の詩の次に位置するのが、関係性を明確にできていいと思います。
あと、表現でステキだったのは、
砂に残った一筋の足跡が雨に濡れる
雨音はない
と
雨粒が次第に重くなり
砂地に 深く突き刺さる
の2ヵ所で、砂浜に降る雨の特徴を捉えていて、観察力が秀逸です。
うむ、いちおう、先の詩からの連作と読ませてもらったという評価で、名作を。
母の突然の事故死の悲しみにくれる、少年のやるせない気持ちが伝わってくる詩でした。
ところで、この曲は、歌手の風貌や、マイナーコードが続く曲のメロディもあって、一人ぼっちを歌った曲と見なされることとなり、それが当時の若者の孤独感に共感を呼ぶところとなりましたが、
歌詞だけを読むと、「時には母のない子のように」なので、この主人公には実際には母がおり、その中で放浪の旅に出たいような、敢えて孤独な存在になりたいような、揺れ動く若者の心情を描いてる詩と読むのが妥当でしょう。
決して現実において、ひとりぼっちである人の歌ではないので、詩を書いた本人からすれば、たぶん意図しない方向に世間の受けとめが行ってしまった曲なんだろうと想像します。