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スレッドNo.4719

感想と評 10/15~17ご投稿分  水無川 渉

お待たせいたしました。10/15~17ご投稿分の感想と評です。コメントで提示している解釈やアドバイスはあくまでも私の個人的意見ですので、作者の意図とは食い違っていることがあるかもしれません。参考程度に受け止めていただけたらと思います。

なお私は詩を読む時には作品中の一人称(語り手)と作者ご本人とは区別して、たとえ作者の実体験に基づいた詩であっても、あくまでも独立した文学作品として読んでいますので、作品中の語り手については、「私」のように鉤括弧を付けて表記しています。ですが、「私」=「作者」の場合はもちろんそのように読み替えて読んでいただければ幸いです。

●喜太郎さん「恋せよ乙MAN」
 喜太郎さん、こんにちは。このタイトルは「いのち短し恋せよ乙女」のパロディですね。でも主人公の「僕」は男子学生で、「乙女」を「乙MAN」としているのがユニークです。
 最初の2連は斜め前の席に座る「君」への「僕」の片想いが描かれます。「僕」は「君」と言葉を交わすこともなければ、正面から見つめることさえしません。斜め後ろから「チラ見」するだけという描写に、「僕」の切ない思いが伝わってきます。
 3連では「君」のいた席が空席になっています。転校していったのでしょうか。「僕」は「君」のいなくなった寂しさを噛み締めている……と思うまもなく、終連ではその席に座った新しい転校生にときめいている姿が描かれます。
 移り気な「僕」の淡い恋心を軽やかなタッチで描きながら、どことなく切ない読後感が残るのは、最後の一行「今を感じてる僕がいる」があるからではないかと思います。この一行から、タイトルでは言及されなかった「いのち短し」のフレーズが私の心には響いてきました。この詩は中高生くらいの若い語り手が設定されていますが、作者は大人になってから青春時代を振り返っているような印象を受けました。タイトルからも、若い世代へのエールのようにも読める作品だと思います。評価は佳作です。

●松本福広さん「バラストの手」
 松本さん、こんにちは。船舶が世界中に持ち運ぶバラスト水によってローカルな生態系のバランスが崩されるという、シリアスな主題を扱った詩ですね。参考のリンクも勉強になりました。
 この作品では船体から出入りするバラスト水を「手」あるいは「腕」と表現しています。こういう正論を主張する詩はベタに書いてしまうと説教臭くなってかえってインパクトを失ってしまうと思うのですが、この作品は環境問題を隠喩を用いて詩的に表現しているのが素晴らしいです。初連2行目の「油膜をはったようなマーブル柄の腕」という描写は、いかにも汚れていて不吉な感じがしますね。この「手」の比喩は全篇を通して出てきて統一感もあります。
 一点だけ、冒頭の「海を泳ぐ船」という表現は再考した方が良いかと思いました。船を擬人化して「泳ぐ」と表現すること自体は良いと思うのですが、その後に「腕」や「手」が出てきますと、読者はこの船がそれらの「腕」や「手」を用いて泳いでいるイメージを持ってしまうのではないかと思います(私もはじめそう読んでしまいました)。けれども全体を読んでいくと、この詩の「腕」や「手」はバラスト水のこととされ、初連最終行にあるようにそれは移動中は使われないとされているので、イメージが混乱してしまいます。
 作品全体としてはバラスト水としての「手」のイメージの方が中心にあると思いますので、そちらを活かすべきだと思いますが、そうすると初行の「海を泳ぐ船」は別の表現に変えたほうが良いかと思いました。ご一考ください。評価は「佳作半歩前」になります。

●佐々木礫さん「無理ゲーに黄昏る人に冷たい希望をくれる人」
 佐々木さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
 この詩は、一見人生の苦難に絶望している人々を励ましているように見えて、実は突き放している、そんな人々を風刺的に描いた作品であると受け止めました。語り手である「私」は社会的にある程度恵まれた特権的な境遇にある人間として描かれているように思います。そのような人々にとって、苦しい生活にあえぎ、絶望をあらわにしている人々は、目障りで居心地の悪い存在に映るのかもしれません。そこで彼らは「絶望しないでくれたまえ」と訴える。しかしそこにはそもそもその絶望を生じさせている社会の矛盾を改革していこうとか、助けの手を差し伸べよういう意思はまったく感じられません。まさにタイトルの示しているように、他人事のような「冷たい希望」ということができるでしょう。
 社会問題を独自の切り口で描き出した良い詩だと思いました。またぜひ書いてみてください。

●森山 遼さん「かみなり様の夕べ」
 森山さん、こんにちは。今回の作品は情景を掴むのに少々苦労しました。最初に一読した時は、外でかみなりが鳴っている中、その様子を窓から眺めているのかと思いましたが、どうもそうではなさそうです。涙が出そうになって目をぱちくりすると、かみなりのように光が明滅して見えるということですね。目に溜まった涙で外の街灯の光が反射でもしたのでしょうか。
 つまり、実際にかみなりが光っている訳ではなくて、「僕」が窓辺で涙ぐみながら目をしばたたいているだけなのですね。そうすると3連の「かみなり様はまだやまない」は、そのような悲しみが続いていることを表現しているのだと思います。そして「僕」はその状況を諦念をもって受け入れ、「やむのを待つのは/もうあきらめよう」という気持ちになる。悲しみの心情をユニークな方法で表現しておられて素晴らしいと思いました。
 この詩でよく分からなかったのは終連です。「かみなり様におへそを取られる」ということは最近では子どもにも言わなくなったのかもしれませんが、「かみなり」ではなく「かみなり様」という表現からは、やはり小さな子どもをイメージします。では作品中の語り手である「僕」は子どもとして設定されているかというと、終連の内容からすると、どうもそうではないようです。そこにまず違和感があります。
 また、せっかく3連まで悲しみの感情をうまく伝えてきていたのに、終連ではそのような自分自身から急に距離を取った描き方になっています。一時の悲しみもやがては「いい思い出」になる。だからくよくよせずに「ゆったり暮ら」そう、ということかと思いました。そうすると「詩を書く自分を/思いながら」も、今感じている悲しみを詩に書けば、それを昇華することができる、ということになるでしょうか。
 自分の中にあるネガティブな感情を詩に書くことで、それらの感情を乗り越えることができるというのは実際あると思います。これは森山さんのそういった実体験に基づいているのかもしれません。ただ個人的には、このような形でオチをつけてしまうと、3連までしっとり良い感じで悲しみを描いてきた流れにそぐわない気がします。3連で悲しみに身を委ねる諦念が描かれた直後に、終連でその悲しみが簡単に(と私には思えるのですが)解決されてしまい、そのギャップが不自然に感じてしまうのです。ですので私としては、この詩は終連で変にひねらずに、3連までの流れを受けるような形で終わらせた方が良いように思いました。終連も「かみなり様」に絡めた内容にするのも一案だと思います。もし終連を残すなら、3連と終連の間をつなぐ移行部を設けることも考えてみてください。
 基本的な着想やイメージはとても良いと思います。終連だけ再考していただけると、素晴らしい詩になると思います。ご一考ください。評価は佳作一歩前です。

●荒木章太郎さん「知の檻と逃走線」
 荒木さん、こんにちは。この詩は現代人の生きる状況、それも高度に洗練された管理社会に囚われている状況からいかに自由になるかをテーマとした作品と受け止めました。
 現代の国家権力は「鉄の壁」のように分かりやすい暴力や強制によって人々を支配するのではなく、一見蜘蛛の巣のように頼りない「知の檻」によって、人々がすすんでその支配に身を委ねるように仕向けているのかもしれません。権力はまた、それが支配する多様な人々が一致協力することを妨げ、互いに争い合うように仕向けることによって、自らの支配を維持しているとも言えるでしょう。
 そのような目に見えない束縛に対抗し、そこから逃れるために必要なのは、自分の頭で考え、多様な人々と協力することである――これがこの作品のメッセージと受け止めました。そしてそのような豊かな思想は、「カビの生えたような歴史」を繙くことによって発見できるのかもしれません。この詩のユニークなところは「身の丈(たけ)で思惟(しい)する」ことを「椎茸(しいたけ)」にひっかけて、そこから豊かなイメージの連鎖を紡ぎ出しているところです。
 タイトルにもある「逃走線」はジル・ドゥルーズの概念を指しているのではないかと思います。フランス現代思想の香りがしますが、それを「すき焼き」という、庶民的な和のイメージに落とし込んでいるのが新鮮で面白かったです。また現代日本社会(日本だけではないかもしれませんが)の状況とも関連していろいろと考えさせられる良い詩だと思いました。評価は佳作です。

●温泉郷さん「詩の質量」
 温泉郷さん、こんにちは。今回の作品は詩についての詩、いわゆる「メタ詩」ですが、物理的な「モノ」としての詩集について思考をめぐらした興味深い作品だと思いました。
 紙の本は一度濡れてしまうと、ふやけてしまって二度と原形には戻りません。豪雨で濡れて紙面が波立ちくすんでしまった詩集を中心にこの詩は展開していきます。この詩で描かれているストーリーは以下のように要約できると思います。
 1)語り手は持っていた詩集を雨で濡らしてしまう。
 2)汚れてしまった詩集を読んでみても、言葉まで変質したようでうまく心に入ってこない。
 3)新しい詩集を買うと言葉がすっと心に入ってくる。
 4)汚れた本の詩の言葉が質量を備えたことを知り、もう一度そちらを繰り返し読んでみると、ようやく詩の言葉が飛び立った。
このようなストーリー展開を経て、終連の結論に至るわけですが、この流れで考えると、この詩で言われている、雨で汚れたことによって言葉に付与された「質量」は否定的に捉えられていると思ったのですが、この解釈で合っていますでしょうか。語り手は、汚されて質量を与えられてしまった詩であっても、純粋にその言葉に集中して読んでいくならば、そのような「質量」から解放されて味わうことができるようになった、と言っているように思えました。
 ここからはごく個人的な感想になります。私はネット上で詩を読み書きしてはいますが、モノとしての詩集にも大きな愛着を持っています。雨で濡れたりと言ったアクシデントに見舞われなかったとしても、長く所蔵していたり古書として入手したりした詩集は、紙も古びてそれなりの物理的状態になっていきます。でも私は、そのような本のヒストリーも含めて詩の味わいというのはあるのではないか、と考えています。そういう意味で、私としてはこの詩で言われている詩の「質量」は、もう少し肯定的に見てみたい気もしています。
 上記の点、温泉郷さんとは見解が異なるかもしれませんので、スルーしていただいてまったく構いませんが、いずれにしても、詩の言葉と物理的な本の関係についていろいろなことを考えさせてくれる、とても興味深い詩でした。評価は佳作です。

●愛繕夢久さん「風鈴」
 愛繕さん、こんにちは。初めての方なので感想を書かせていただきます。
 季節外れの風鈴の音というのは、想像するだけで何か物悲しい風情が漂いますね。この詩は最初は近所迷惑にしか思っていなかった風鈴の音から、アパートの隣人の死について知らされるという意外な展開になります。最終行の「爺さん、あんまり鳴らすなよ」は、一見ぞんざいな物言いの中に、亡くなった「爺さん」に対する語り手の温かい思いがにじみ出ていて良かったです。
 とても味わい深い詩をありがとうございました。またぜひ書いてみてください。



以上、7篇でした。今回もありがとうございます。異常に長かった夏もようやく終わり、朝夕はぐっと気温が下がってきていますが、皆さまどうぞご自愛ください。

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