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スレッドNo.4770

今は此所にいる 津田古星

母が八十九歳で逝った時 
父は九十歳で
既にアルツハイマー型認知症と診断されて
数年経っていた
長男夫婦や孫と共に暮らし
今聞いたこと 言ったことを
すぐ忘れてしまったが
困った症状はそれほどなく
歩くことも出来たし 食事も普通にして
穏やかな毎日を過ごしていた

母が元気だった頃の父は
持病もなく 寡黙であったためか
「忘れっぽくなった」と母に言われても
認知症とは気づかれず 発見が遅れた
母が八十代半ばで脳梗塞を発症して
介護サービスを利用するようになっても
父が「最後まで世話をする」と言っていたくらいだから
一年後に自分が介護される身になったことに
抵抗があったようだったが 
夫婦二人一緒にデイサービスに行くことにも慣れ
歌を楽しんだり パン作りを褒められたりして
仲の良い話し相手も出来たようだ

母がいなくなってからは
月に一度のショートステイも利用した
その施設に父の異母姉が入所していて
この先 父も入所するのかと聞いたらしい
すると 父は
「今は此所にいる」と答えたそうだ
先のことはわからない
しかし今はこの施設にいる
今居るところで生きてゆくしかないという
諦念であったのか
今居るところを自分の天国にするという
心構えであったのか

父は老いも病も受け容れた
長男の都合でショートステイに
行かねばならなくなっても
それを淡々と受け容れた
今居るところで生きてゆかねばならないと
思っていたのだろうか

母の死から二年経って
肺炎になり入院すると
父の回復は見込めなかった
亡くなる一週間前 病床を見舞ったとき
母の最後には言えなかった言葉を伝えた
私だけでなく 皆が感謝していると
父が小さな声で「うれしい。……の番茶」と呟いたのが
やっと聞き取れたので
お茶を飲みたいのかと思って
用意したが 飲もうとしなかった 

父は番茶が気になったのだと
後になって気づいた
七十代半ばで畑を人に貸すまでは
新茶の刈り取りと製茶を終えて
一息着く間もなく番茶を刈らねばならぬのが
毎年のことだったし
製品にした茶の取引先との交渉を
繰り返し聞かされたこともあった

五月末の茶園を思ったのか
家族と番茶について語らっていたのか
その時父は十月の病院ではなく
最も愛した場所に居た

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