イートイン 静間安夫
とある休日
駅前に買い物に行った帰り道
ふとコーヒーが飲みたくなったけど
どこのコーヒーショップも満員
こういうときは
少し歩いたところにある
コンビニのイートインで
コーヒーを飲むことにしている
備え付けのコーヒーマシンから
出てくるコーヒーは
値段は安いけど なかなかのものだし
長いこと居座っても
白い目で見られることもない
今日もコーヒーを飲みながら
買ったばかりの文庫本を
さっそく読み始めよう…
などと思いながら
いざコーヒーを手に
イートインにはいってみて驚いた
8畳くらいのスペースに10席ほどある
結構広めのイートインなのに
ガラガラなのだ
いつもは そこそこの人数の
先客がいるのに…
理由はすぐにわかった
窓側の席に陣どった
年輩の女性客の様子が
尋常ではないのだ
伸び放題の白髪は
肩から背中に垂れ下がり
顔にも被さって
表情もよくわからないほど…
戦時中の婦人たちが身につけていた
モンペのような服を
痩せ細った身体に着ているのだが
これがすっかり色あせて
シミだらけ
傍らのテーブルの上には
大きな風呂敷包みが置かれ
この包みに 折り畳み傘だの
ニット帽だのが結びつけてある
針金のような身体で持ち運ぶのは
さぞや大変だろうに
しかし何にも増して異様なのは
ひっきりなしにブツブツ ブツブツ
誰に語るともなく
独り言を話し続ける
彼女の有様だ
どの客も この女性を気味悪がって
イートインを出てしまったのだろう
今やこの空間には
彼女とわたしの二人だけだ
わたしは少々へそ曲がりなので
あっさりと最初のプランを放棄して
テイクアウトに切り替えるのは
逃げ出すみたいで気が進まない
例の女性から ふた席ほどあけて座り
文庫本を片手にコーヒーを飲み始めた
けれども内心は
ひょっとして
話しかけられたらどうしよう?
と、ハラハラしてしまい
コーヒーを飲む間隔が
いつもに比べてついつい短くなり
文庫本の中身もあまり頭に入ってこない…
と、そのとき
老女の話す言葉の一つが
わたしの注意をひいた
「平和の里公園」
彼女ははっきりとそう言ったのだ
ここから歩いてもそう遠くない
四季おりおりの花々が楽しめる
わたしのお気に入りの公園だ
その瞬間 思わず知らず
わたしは彼女の独白の
聞き手になっていた…
「やれやれ!
今日は久しぶりに
あの公園のベンチに座って
深まる秋を楽しもうと思ったのに…
あんなに人出があっては
のんびり座れるところなんか
見つかりゃしない !
だけど
あそこで紅葉やスポーツを
楽しんでる連中は
きっと誰も知らないだろうさ
戦前、あの場所が
政治犯や思想犯を
収容する刑務所だったことを
お花見でにぎわう あの桜並木だって
元はと言えば
刑務所の塀ぎわに植えられていたものさ
桜の樹と刑務所の組み合わせなんて
これから入所していく連中にとっては
よほど残酷に感じられるだろうよ!
ましてや
彼らは まっとうな言論という手段で
時の政府を批判したのにさ
テロリストでもなんでもない!
自由な思想の持ち主というだけで
目を付けられた人たちだって数知れない
あの有名な哲学者の○○□なんて
不運の極みというものさ
刑務所に入れられた後でさえ
人間解放のための独自な思想を
営々と構築し続けたのに
結局獄中で病死してしまった…
それも終戦のあと、すぐに釈放されていりゃ
きっと亡くなることはなかったろう
いったいなんだって一月半も余計に
牢屋に入れっぱなしにしたんだい!
むちゃくちゃな話じゃないか!
それからすると
ずいぶん時代も変わったね
今、この国には
治安維持の悪法なんてとっくにない
誰も彼も自由に自分の意見が言える
政治犯や思想犯、なんて言葉は
もはやこの国では死語になっちまった
だけど、その分
語られる言葉も思想も
すっかり軽くなったよ
それどころか
みんな同じようなことしかいわない
自由に発言できるはずなのに
こりゃあ、それぞれの人間の
知的怠慢でなくして なんだろう!
こういうのを平和ボケって言うのさ!
でも、多少ともまともに
ものを考えられる人間だったら
わかりそうなものさね!
今、この国を覆っているのが
見せかけの平和だってことくらい
経済の格差は広がる一方
洪水だの地震だの災害が相次いでいるし
世界中のあちこちで戦争が起きている
今こそ骨太の思想を
紡いでいかなきゃいけないのさ
よりよい社会を作るために!
きちんとした処方箋なくして
行動を起こしたところで
結局混乱をまねくだけ
わたしが学生運動やってた頃は
先輩も友だちも
デモで街を練り歩いていただけじゃない
いっぱしの思想家たらんと
経済も政治も文学も
よく勉強していたものさ」
老女は相変わらずしゃべり続けている…
今でこそ幽鬼のような姿(失礼!)を
しているけれど、きっと若い頃は
颯爽たる学生運動の闘士だったのだろう
それに、あの「平和の里公園」には
思いもかけない背景があることを知って
わたしは勉強不足を恥じる気持ちになった…
と、突然このとき 女性の鋭い視線が
わたしを捉えた―顔にかかった髪の間から
こちらを見つめている眼に
すっかり射すくめられてしまった
すると老女は自分の席を立って
わたしのところまでにじり寄り
文庫本に目をとめて
「この世界の名詩集
わたしも学生のころに読んだよ
どの詩も素敵な日本語に訳されていて
一度読んだら忘れられないものばっかりさ
そこに確か『パトモス』という題の
詩が載っているはずだよ
そう、それそれ、ちょっと見せてごらん...
ここの
『危難のあるところ
救いの力もまた育つ』
って、いい言葉だろう!
まるで哲学者の○○□のことを
言ってるみたいじゃないか
困難な運命に見舞われてなお
この国の思想史に残る仕事を
生み出したのだから
いや、見舞われたからこそ
なのかもしれないね」
そう言うと
彼女はくるりとわたしに背を向けて
大きな風呂敷包みをひっつかむと
軽々と持ち上げて、一陣の風のように
店を出て行った
その瞬間 わたしは正直
緊張から解放された
でも、それといっしょに
不思議と充実した気持ちが
心に湧き上がってきたのもほんとうだ
さっき、コーヒーをテイクアウトにしないで
イートインで味わうことにしてよかった、
しみじみ そう思えたのである