養母の記憶 上田一眞
実家の縁側
小春日和の光が柔らかい
私は
老いた養母の意識のなかを泳ぐ
一匹の金魚だ
タイスの瞑想曲が聴こえる
意識の淵を深く深く潜って行くと
タイムマシンのごとく
戦前の朝鮮・釜山に辿り着いた
*
1. 松脂採集
学校(釜山高女)の授業は行なわれず
終日 勤労奉仕
松林に行って樹液を採る
何でも航空機の代用燃料になるから
大事な作務らしい
それにしても
作業は危ないし 汚いし キツい
2. 憲兵
松林に行くまで
嫌な所を通らねばならぬ
釜山の憲兵隊
古めかしい煉瓦造の門の前で
赤ら顔の若い憲兵が
銃に着剣して突っ立っている
場所も
人も 気味が悪くてしかたがない
あの兵隊さんは何者だ?
何をする人だ?
3. スパイ
ある日
憲兵隊詰所の前で
引っ立てられている男を見た
あっ あのおじさん
丘の上からいつも港を見ている人
初めて見たとき
何をしてるのかと不思議に思った
スパイの嫌疑で捕まったともっぱらの噂だ
顔から血が出ていたが
さんざん
打ち据えられたんだろう
まさか殺されるってことはなかろうが
4. 英語禁止
学校では
英語の授業がなくなった
なんでも鬼畜米英の言葉は使ってはならぬ
ということらしい
言葉の理解なくして相手のことは分からない
相手のことを知らねば
戦に勝てぬではないか
バカバカしい
おとなは
そんな戦いのイロハも知らないのだろうか?
5. B29
家に帰り
晩ごはんを頂いていると
空襲警報が鳴った
急いで電気を消して空を見上げた
サーチライトが一機のB29を捉えた
夜空に浮かぶジュラルミン
姉が
まぁ綺麗!
と言ったから慌てて口を押さえた
この頃は度々
港に機雷を落としに来る
6. 炊出し
終戦を迎え 暫くして
大勢の日本人が
釜山の街に押し寄せて来た
帰還船に乗るためだ
北鮮や満州から辿り着いた者
難民のごとく
皆 着のみ着のままで
何も持っていない
家にあるお米を炊出した
苦しき同胞を救おうと
家族全員で懸命におむすびをにぎった
7. 帰還
百貨店の番頭だった父
ある日 走って帰って来た
ハアハアと息が切れ
水を飲み干すと
船に乗れるから
明日中に帰国の準備をしろ
と言う
家財など勿論置いたまま
リュックサックに詰めるだけ食料を詰め
船に乗った
対馬海峡の荒波に揺られ
ようやく着いたのは仙崎港だった *1
*
養母は認知症
もの忘れが酷く 会話した内容を
たちどころに忘れる
この頃は
会話している最中
うたた寝をするようになった
たが自分の青春時代である
釜山での生活は
断片的だが明瞭に覚えている
私が養母に問いかけ
金魚となって心のなかに分け入る
彼女の記憶のなかを泳ぐと
戦時下に
青春を黒く色塗られた
ひとりの少女の悲しい歴史が見えて来る
*
話してくれてありがとう
よかったね
昔に戻れて…
もうゆっくりおやすみ
母はまた
忘我の世界に戻って行った
*1 仙崎港 現長門市仙崎