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スレッドNo.4879

花のエキス  相野零次

僕がやさしい瞳であるうちに、君達は去った方がいい。
その日の僕の怒りはほとんど極限だった。
心が張り裂けて爆発して全てを無に帰することができた。
それをしないのは君達が可哀そうだからだ、哀れだからだ。
こんな糞みたいな街で毎日汗水流して働いてわずかな日銭をもらい、安い鼻につんとくる香水を風呂にも入れない毎日からもたらされる悪臭を隠すために買う。それだけの日々を生きる女もいれば、汗をかいて渇いてをなんども繰り返して鼻が曲がる悪臭を匂わないですむためのせんたくばさみを買うだけの男もいる。
その男女たちがつくっているのは造花の香りだ。
それは得も言われぬ芳醇な芳香を醸し出しているのだ。
男女たちはその芳香の犠牲に自らの悪臭を止めないのだ。
その自らの悪臭のなかのエキスから芳香は作られるのだ。
だから男女は己らの仕事に誇りを持っている。
そうだ。みんなそれを知っている。
だから男女を臭いなどと罵る輩はいないか、いても非難を受けるのは非難した側のほうだ。
一度その造花の芳醇な芳香を嗅ぐと、ひとは虜になる。
癖になるのだ。最初は一年に一回が、三か月に一回、一か月に一回、一週間に一回、毎日、日に三回、と次第に増えていき、もはやその芳醇な芳香なしでは生きていけなくなる。
だから、その造花を得ることができるのはとてつもない財を築いたものだけなのだ。金持ちだけが楽しめる途方もない娯楽なのだ。しかしまれに、金持ちの娯楽がなぜか庶民に伝わってしまうこともある。そうするとどうなるか。
庶民は最初は一年に一回、一本だけで我慢しようとするが、できるはずがない。それだけその芳香は魅力的なのだ。財を投げ売ってその造花を得ようとするが、造花はとても高価なので、足りるはずもない。するとどうなるか。
最終的にはその芳醇な芳香の造花を作る男女の側に回るのだ。日々の悪臭を耐え抜き、一日のほんのわずかな一瞬にだけ、その芳醇な芳香を嗅ぐことが許される。それは日々の悪臭という苦行をも忘れさせてくれるのだ。
そうしてその造花の芳醇な芳香の仕組みはなりたっている。哀れな男女たちが身を粉にして造花を作り、わずかな富裕層だけが毎日、何十本もの至福な時間を過ごすことができるのだ。
僕はそのことを身に染みてわかっている。なぜなら僕は今まさにその造花を作っている側だからだ。
そんな僕をくさいくさいと馬鹿にする君達が眼の前にいるのだ。僕が金持ちに告げ口すればお前も造花づくりの犠牲者の一人にすることも可能なはずなのだ。
ほんとうに僕は爆発寸前だった。しかし、それは不意に訪れた。
僕を雇っている金持ちが帰ってきたのだ。あの造花を胸のポケットに差して。
その瞬間、部屋中が芳醇な芳香に満ち、僕のくだらない怒りなど忘れさせてくれた。
その男女らは何だ?君の知り合いかね。と僕に金持ちは尋ねた。
ええそうです、新たな働き手達ですよ、と僕は告げた。
彼女らは否定も肯定もしなかった。ただその芳醇な芳香の虜になっていた。
だから僕はこの部屋に入るなと必死に止めたのだ。
だがもう遅い。彼女らはこの造花を手に入れることを止められないだろう。しかし彼女らは僕同様、金持ちなんかじゃない。与えられる側ではなく作る側に回るしかないのだ。
僕は彼女らを蔑む一方で、ふっとほくそ笑んだ。

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